「不二見えてあの世この世の若菜摘む(中川宋淵)」

2020. 3.20

中川宋淵

不二見えてあの世この世の若菜摘む

和尚からの蛇足

 三島に龍澤寺という臨済宗の専門道場の禅寺があります。その住職をされていました、俳人としても有名な中川宋渕老師の一句です。この「不二見えて・・・」はご自身で選ばれた俳句10句の中にあります。

 宋渕師は「献詩」という詩の中で「冨士は不二なり 不死なり 不尽なり 最も冨〔と〕める士〔ひと〕なり 即ち仏なり」と書いています。富士山の見える麓で生えだしたばかりの若菜を摘んでいる姿を詠んでいるのです。

 この句の「不二」と「若菜」の語の間に「あの世この世」ということばが入り、不思議な浮揚感を醸〔かも〕しています。老師の書かれた『十句』という本の中で次のようなことを述べています。「絶対矛盾の自己同一から、死が生で、生が死で、この世があの世で、あの世がこの世でというのは、マイナスがプラスで、プラスがマイナスだというのが本当なのであって、何ともいえないそこの『絶対の世界』なんです。しかし、そこに腰を据えておってはいけないんだ、絶対平等の世界に、一つだという世界を見た、と共にまた何一つとして同じものはないという差別の世界、みんな違っています。絶対差別のまんま絶対平等、絶対平等のまんま絶対差別の世界なんです。」と。

 これを読んですぐにわかる人は恐らくほとんどいないでしょう。それを説明することはとても愚僧には力不足です。それでも禅語録で使われる差別〔しゃべつ〕と平等〔びょうどう〕という語について意味を書いて、こういうように読みますがと示し、後は皆様の解釈にゆだねたいと思います。
この差別〔しゃべつ〕を辞書を頼りにあえて書くと『それぞれの物が異なるすがたをもって存在しているすがた」。平等〔びょうどう〕はそれを否定した「無差別の世界」とあります。

 そして不二ついて『十句』の中で「二つじゃない、一つだと。その一つというところもないのだ、実は。」と宋渕師は書いています。

 この句を味わうには少し坐ってからの方がいいでしょう。そうしたときの私なりのひとつの味わい方として記しておきます。冨士の山も、それに対する若菜もそれを摘む姿の見えない存在も縁起の理(人間は実体的にあるのではなく、関係的にある)によっているのだと理解すると、この句もスッと腹に入ってくるように思います。今摘んでいる若菜はこの世のものでしょうか?あの世のものでしょうか?そんなことも忘れて、富士を一方に麗〔うら〕らかな野辺が目の前に広がっている景色を眺めながらのひとときです。しかし、そんな対象物は幻にしか過ぎず、自ら信ずるものはカラリとして心の中は清浄そのものである。

みなさんはどのように読みましたでしょうか。

(初掲載2017年3月7日)

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