「不易流行〔ふえきりゅうこう〕」について

2020. 7. 3

対談 其の二
(鎌倉)円覚寺派管長 横田南嶺老師と(世田谷)野沢龍雲寺 細川晋輔師の対談(2020.06.20 ユーチューブ)

細川「不易流行って、今大切なことだと言われています。特に宗門においては、変えなくてはいけないもの、変えてはならないものであります。平林寺の松竹老師は変えてはならないもの、変えなくてはならないもの、変えざるを得ないものという風におっしゃっています。
今こうやってユーチューブとかオンライン放送――オンラインによって伝えるというのは変えていかなきゃいけない流行にのってやらなきゃいけないものの、その先にある変えてはいけないもので、管長さんはどんな風にお考えになりますか?」

横田「変えてはいけないものというのはわれわれがどんなことをやっても微動だにしないものだと思いますよ。何をやろうが絶対にそれによって変わらないものがあるはずです。それはねえ大拙先生のことばでいえば冷静や無分別やわれわれの言葉で言えば仏心や仏性。言わんとするところは銘々が仏心や仏性に目覚めるというわれわれの狙いはそれ以外にはないはずでありますから、それで仏心・仏性というものはわれわれがユーチューブをやろうがほかのことをやろうが、私は全くわれわれがどんなに騒ごうが微動だにしない。かすり傷もつかない所をちゃんと押さえていれば、あとはそれ以外は気にしません。だから私の言っていることはまともに聴かん方がいいのだけれど・・・。」

細川「私が印象を受けた動画が『祈り』というものなので特に管長さんの動画であの雨乞いの名人の話が私好きで、雨が降るまで祈り続ける。雨乞いでもう一つ好きな話しがあって、みんな村で雨乞いに行って子どもが傘を晴れた日なのに持って行って、子どもがなんでみんな雨乞いに行っているのに傘を持っていかないんだという話が私結構好きで、行ってみたら、雨乞いで雨が降るのを期待して行くのにどこかで何か形だけになってしまっているところが もしかしたら私たちお坊さんの方にもあるんじゃないかなという風に思っています。それなので、やっぱり祈り続けるって管長さんに言われるとなんか胸に迫るものがあって、私たちはやっぱり『擔雪埋井』じゃないですけれども、雪で井戸を埋めていくこんな気持ちが大切じゃないかなっていうのを動画で再び再確認させていただいてます。」

横田「もちろん祈りというのは別段われわれで言えばお内仏でね、一人誰も見ていないところで祈るもうそれが根本ですよね。別に祈らなくてもいい、祈らなくてもいいんでしょうけれど、しかし、やっぱりああいうのをしないと伝わらないからね。大拙先生の言葉で『人生は永遠に叶えられることのない祈りの一生である』とあるんですけどねえ、好きですね。そういう風にありたいなあと思っておりますね。」

細川「四弘誓願の心ですね。」

横田「ああそうですね。結局そういうところは変わりようがないわけですよ。絶対に変わらない。四弘誓願・祈り・慈悲・仏心。私は別に不易というのはそこの所だとしか見ていない。」

 

【不易流行】ふえき‐りゅうこう=〈広辞苑〉(芭蕉の俳諧用語) 不易は詩の基本である永遠性。流行はその時々の新風の体。共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一であるという。

和尚からの蛇足

 この対談を聞いていて、細川師が「不易流行」という言葉をだされた唐突の感が拭〔ぬぐ〕えない。世の中には「変えてはならないもの、変えなくてはならないもの、変えざるを得ないもの」があるとはよく分かります。

 しかし横田老師が「変えてはいけないものというのはわれわれがどんなことをやっても微動だにしない」(中略)「所をちゃんと押さえていれば、あとはそれ以外は気にしません。」と答えられている。これを聞いてなんと小気味がいいことかと感じた。と言うよりは、さすがに急所を押さえられていると感服した次第です。

 仏教布教において旧来の方法に加え、オンライン放送のようなやり方を前提に、この「不易流行」という言葉を使われているのに私は少し抵抗を感じている。それを否定するということではなく、「ユーチューブをやろうがほかのことをやろうが、私は全くわれわれがどんなに騒ごうが微動だにしない」というようにはっきりと腹を決められていることが大切なのである。

 そこで初めて、横田老師が指摘されているように、鈴木大拙先生が「人間の一生は不断の努力であり、永劫に聞かれぬ祈りであり、無限に到り得ない完全性の追求である」と書かれていることの本当の深い意味が分かってくるのではないでしょうか。

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