「日本人の山岳信仰」 鈴木正崇

2020. 6. 5

   「日本人の山岳信仰」鈴木正崇著(2019.9.27中外日報)より

修験は神仏習合の修行体系
日本文化の根底に「自然との調和」
山は祈りと畏れの対象
奈良時代から始まる登拝行

●山岳信仰への視角
 日本列島で生活する人々の文化を育んできたのは変化に富む山であり、思想や哲学、祭りや芸能、演劇や音楽、美術や工芸などの多彩な展開に大きな役割を果たしてきた。その中核にあったのが山を崇拝対象とする山岳信仰で、山に対して畏敬の念を抱き、神聖視して崇拝し儀礼を執行する信仰形態をいう。山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納した。山を祈願の対象とし、山との共感を通じて、日々の生活を見つめ直し、新たな生き方を発見した。山は蘇〔よみがえ〕りの場として機能してきたのである。
 日本の国土の4分の3は山や丘陵地であるという。日本の山は里からほどよい距離にあったことで多様な山の信仰を育み、山は人々の日々の暮らしの中に溶け込んでいた。日本の山は個性豊かで強い印象を残す。しかし、山は時には土砂崩れや大洪水を引き起こし、噴火するなど災いを齎〔もたら〕す。山は祈りと畏れの対象であった。
 山岳信仰は近代に大きく変質した。明治政府の神仏分離政策で神仏混淆の山岳信仰は根底から覆ったのである。平成30(2018)年は明治維新150年で同時に神仏分離150年でもあったが、多くの人にはその認識は薄い。日本人の精神文化の根底を支えてきた山岳信仰を通して、日本人にとって山とは何かを考え、近代の在り方を問い直す必要があろう。

(中略)

●神仏習合
 各地の山の名称には仏菩薩や仏数思想に因〔ちな〕む名前が多い。山岳信仰と仏教の融合に伴って、神仏習合の現象が起こった。奈良時代には仏教の論理では日本の神は迷える衆生の一種とされて、寺院に神宮寺を作り神前読経で救済した。その後、神々は仏教の護法善神とされ、八幡神(八幡大菩薩)は僧形の神像で表された。神像の生成も仏像の影響によることが大きい。そして、平安時代後期に本地垂迹〔ほんちすいじゃく〕の思想が生まれ、インドの仏菩薩が日本に仮に神として現出し民衆を救済するという神仏一体化の思想が説かれた。神々の本地は仏菩薩で、日本では「権〔かり〕に現れた」ので「権現」という尊称を付けた。化身、権化〔こんげ〕とも言える。
 修験は神仏習合に基づいて山岳修行を体系化し、山の神々は湯殿山大権現、鳥海山大権現、箱根山大権現、白山大権現、戸隠山大権現などと尊称され、本地には薬師や観音や釈迦などがあてられた。吉野では金御嶽〔かねのみたけ〕(金峯山)で修験の独自の崇拝対象である蔵王権現が生み出された。日本各地には権現山が数多くあり、御嶽山や蔵王山、修験の異称に由来する聖〔ひじり〕岳や天狗岳も各地に残る。明治の神仏分籬以前は寺院には鎮守社が鎮座し、神社には神宮寺があり、神社のご神体が仏像であることも通常であった。修験道は、明治元(1868)年の神仏判然令や、明治5(1872)年の修験宗廃止令が出される以前は、各地の山岳信仰に大きな影響を及ぼしてきた。明治以後、修験道は解体され神仏混淆の思想は、神か仏か、神社か寺院かという二元的思考に再編成された。しかし、日本人の発想は山を思想や実践の接合点とする柔軟な思考によって、千年以上も支えられてきたことを忘れてはならない。

●遥拝から登拝へ、そして観光へ
 山の信仰は遥拝から登拝へと変化してきた。山麓の遥拝、中腹の祈願、山頂の祭祀、祭祀から登拝へ、山岳寺院の開創、長期に亘〔わた〕る山岳修行などに展開し、密教の影響を受けて山々を曼荼羅と見なして縦走する峯入りの実践を中核に据えた修験道を形成した。修行者は山中を母の胎内と見なして再生する胎内修行を行い、最後は即身成仏を遂げ、究極には自然と一体となる。元々は一般の俗人は山に立ち入らず、僧侶や行者の修行場で、登拝は一年の特定期間に限定し、長期の水垢離や五穀断ちなど精進潔斎して登拝が許された。山中は清浄の場とされ、女人結界を設定し、ある地点から上への女性の登拝を禁じた。いわゆる女人禁制である。女性への禁忌は血穢の意識や地位低下の動きと連動していた。結界は元々は山と里の境界でもあり、山中の地獄極楽との接点で、女人堂や姥堂が建てられ、山の神の姥神を祀り安産祈願がなされた。母なる山の意識が根底にある。

 江戸時代には山岳登拝の講が都市民や農民を担い手にして多数設定され、富士講、大山講、御嶽講、山上講、三山講などで民衆が盛んに信仰登拝を行った。山麓には宿坊が整備され、御師〔おし〕と呼ばれる案内人兼祈祷師が成立し、先達として山を案内した。若者が一人前になる修行に山岳登拝は組み込まれ大衆化した。明治5(1872)年に政府は女人結界の解除を命じ、現在は大峯山の山上ケ岳と後山〔うしろやま〕(岡山県美作市)のみとなった。女人結界は、現代の男女同権の立場からは許容できないが、歴史的に形成されてきた経緯を鑑みて中立的立場から考察する必要がある。信仰登山は1960年代の高度経済成長期まで継続し、山がモータリゼーションで観光やレジャーの場になって急速に衰えた。
 2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産(文化遺産)に登録され、その中に山岳信仰の拠点である高野山・吉野山・大峯山・熊野山が含まれた。13年には「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」が登録された。国内では山の信仰の場は「伝統文化」として国史跡や重要文化的景観に指定され、文化財化の動きが加速している。修験を担い手としていた早池峰神楽もユネスコの無形文化遺産に登録された。山の信仰は急速に文化や観光の資源としての活用が進められている。16年の山の日の設定を契機に、長い歴史を持ち日本文化の根底にある山岳信仰を通して、自然と人間の調和を問い直し、経済優先の現代人の生き方を再考することが求められている。

※著者
鈴木 正崇
日本山岳修験学会会長
慶應義塾大名義教授
 すずき・まさたか氏=1949年、東京都生まれ。慶應義塾大名誉教授。専攻は文化人類学・宗教学・民俗学。主な著書に『山と神と人』(淡交社)、『女人禁制』(吉川弘文館)、『神と仏の民俗』(吉川弘文館)、『山岳信仰』(中央公諭新社)、『熊野と神楽』(平凡社)など。

和尚からの蛇足

 これまでもこのブログのコラムでも山岳信仰に関連した文を載せてきた。それは主に修験道として、古来より広く日本で全国各所で行われ民衆に深く浸透していた。私はそのことに興味をもっているからである。
(例えば 2019.12. 6 「山からいただくパワー」塩沼 亮潤師や 2020. 5.15 仏はいったいどこにいるのか『一日一生(部分)』酒井雄哉など)

 日本に仏教が伝えられた六世紀以降、都や地方にあった寺院や山林で修行する僧の存在は日本社会に大きな影響力があった。

 しかしそれ以前の古い昔からも山岳信仰として「山に対して畏敬の念を抱き、神聖視して崇拝し儀礼を執行する信仰形態」で、「山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納した。山を祈願の対象とし、山との共感を通じて、日々の生活を見つめ直し、新たな生き方を発見し、山は蘇〔よみがえ〕りの場として機能してきた」ものであった。
その上に仏教が重なり日本独自の山岳信仰が発達したのだと思う。

 それが「神仏習合」である。長い間には盛衰があったが、明治以後、修験道は解体され神道と仏教は分離されてしまった。今では一般的には神仏分離の歴史が忘れられつつある中、未だに心の奥底に山岳信仰の片鱗は神仏混淆の思想として残っているように思われる。

 ひとつの例で言えば、神社や寺をお参りしたときに「ここは神さま?仏さま?」と迷い、柏手を打つのか手を合わせ合掌するのか戸惑〔とまど〕う場面に遭遇〔そうぐう〕することがある。それが名残に他ならない。お参りしたときに注意深く境内を見ると、神社と寺院がセット(一体)であったことが偲〔しの〕ばれる場所も残っている。

 また山登りをすると、山頂には菩薩や神様が祀られ、祠〔ほこら〕が建っている。かなりの割合で登山道はかつての登(参)拝道だったり、尾根道は修行する行場跡であるのに気がつく。それを見つけることが歴史に興味ある私には楽しみの一つでもある。

 現在、私たちは自然とどう折り合いをつけて、生きていかなければならないかを問われているように思う。その解決の方向としてかつての山岳信仰のあり方に注目してみていいのではないだろうか。それを遺産として守っていく責任は私たちに課せられている。

2 thoughts on “「日本人の山岳信仰」 鈴木正崇

  1. 月ヶ洞廣己 より:

    「日本人の山岳信仰」のブログを拝読させていただきました。高野山、熊野山、富士山とは
    比較出来ませんが、山岳信仰の言葉で私はいつも「鷲頭山」を思います。山頂に祀られている
    鷲頭神社の祠、中腹で祀られている「中将岩」そして白隠さんがお描きになった「鷲頭山」の
    「見上げて見れば鷲頭山 見下ろせば、志下獅子浜のあまのつり船」の讃にお釈迦様が晩年
    説法された霊鷲山と重ねてしまいます。今は「沼津アルプス」と呼ばれている山々が修験者や
    村人信仰の場ではなかったのかと・・

  2. gaunjikame より:

    私は臥雲寺のある戸ヶ谷から登山道が鷲頭山に参拝する大事な入り口であったことに誇りを感じています。また山岳修行の大事な拠点であっただろうと想像しています。
    インドの霊鷲山へ行くと、樹木で覆われている麓がかつて賑やかな集落があったと聞き、信仰・修行・説法の場所と人々の生活の場とのつながりや往き来のあったことが偲ばれます。
    おそらく鷲頭山と地元に住む大平の人々の生活もかつてそういう関係が長く続いていたであろうと思います。いまレジャーに代わったとしても、昔のことを忘れてはならないでしょう。

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