あるコラムを読んで――仏教者の現状に不信

2020. 1.31

「元気なうちに 長野県・匿名希望(会社員・51歳)

 家族にはそれぞれの歴史があり、そのつながりの先に今の自分がいる。
 ここ数年、同居している両親が終活の一環なのか、ご先祖様の月命日に、檀家(だんか)となるお寺の住職を招いて読経をしていただくようになった。我が家の宗派では、こうしたことは徳を積むことになるらしい。

 読経後は住職と一緒に食事をする。父は大病をして以来、お酒を断っている。住職は奥さんを一緒に連れてきて、ザルのようにお酒を飲む。両親としては、自分の葬式のことなど話しておきたいことはたくさんあるようだ。私と同世代の住職はお酒が入って軽くなった口で、同行している奥さんと競い合うようにしゃべり続けるので、ひたすら聞き役に徹するしかない。父が就寝のため席を立ち、そろそろ会の終わりを示しても帰ろうとしない。

 順番から行くと、両親の葬式は、私と夫と2人の息子と妹たちとで行うことになると思う。けれど、この住職の寺の檀家で居続けることに疑問を抱いている。私の祖父が養子になって移住したから今の住所があるのだが、祖父の実家は違う宗派で檀家になっているお寺も違う。
 両親は老年期に入った。寝たきりになった時のケアやどんな葬式をあげるかを、元気なうちに話し合ったり、調べておいたりしたほうがよいだろう。でもこういうことは行動に移しにくいものだとつくづく思う。

 夫と私は、戒名や法名はいらないから、ひっそり旅立ちたいものだ。」
『女の気持ち』(毎日新聞 平成29年4月28日朝刊)

 

和尚からの蛇足

 毎日新聞に掲載されているコラムで見つけたものです。この中には投稿者の本音に近いものが記されていると思います。それが読む理由でもあります。
 これを読んでつくづく考えさせられました。ここに出てくる住職に対して批評をするつもりは全くありません。しかし同じ坊主である私にとって人ごとでないのは言うまでもありません。この投稿者の言いたいことは最後の行に集約されています。

 現代の仏教において一部には形骸化された檀家制度が足かせとなり、信仰や仏の教えに素直に入っていけないとしたら、本末転倒もはなはだしいのではないでしょうか。戒名・葬儀・年忌法要について、またそれらに対する御布施について、心配でそれが心の悩みとなっているとしたら、また和尚の行動が尊敬に値しないと思われ、話しも心に響かないとしたら、「戒名や法名はいらないから、ひっそり旅立ちたいものだ。」という気持ちになるのもわかる気がします。

 仏教では心にあるとらわれから離れるように説いているのですから、少くとも宗教に関わる者はそのとらわれの原因となることはしてはいけないし、それを取り除くように見まもり導くのが宗教者のつとめではないでしょうか。宮澤賢治の『雨ニモマケズ』の中の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」は指針として常に持っていなければいけないと思います。
(初掲載2017年4月29日)

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