しあわせの種類  角田光代

2020. 5.29

幸せって何だろう(JAF2020 2/3月号)より

 しあわせについて語ろうとすると、まずしあわせの定義から考えることになる。私にとってしあわせとはなんだろう?真っ先に思うのは、しあわせとは一種類ではない、ということ。

 しあわせだと自覚するしあわせと、自覚しないしあわせがある。前者の代表格は、おいしいものを食ぺているとき。ああ、しあわせだ、とはっきり思うし、ときには口にも出す。後者は、たとえばあまりにも何気ない日常だ。夕飯の支度をしているときや、猫のトイレを掃除しているとき。そのときは、べつのことを考えていたり、面倒くさいなあと思っていたりする。でも、何か月、何年かたってそのときのことを思い出すと、なんだ、しあわせだったんじゃん、としみじみ思ったりする。この二種類は万人向けで、だれにも覚えがあろだろう。

 私限定のしあわせというものも、ある。確実にしあわせなのは、私にとっては猫と旅と読書。飼い猫を撫〔な〕でるときはしあわせだし、つらい旅の途中でもしあわせな瞬間はかならずある。本を読むこともしあわせ。

 確実ではなく、状況によってしあわせだと思うものとして、酔っ払った帰り道とか、手の込んだ料理作成中とか、マラソン完走後のビールだとかがある。

 とくに理由のないしあわせもある。いつも通る道を歩いていて、ふと顔を上げたら、夕焼けがみごとだったり、月がまんまるだったり、木々の葉がいっせいに揺れていたりする。あまりにいつもどおりの景色だから、ふだんはとくに何も思わず見過ごしているのに、なぜか、ふいにそれらに目がとまり、なんてうつくしい光景だろうと思い、じわじわとしあわせを感じることがある。自分でもなぜその日、そのときだけそんなふうに思ったのかはわからない。コントロール不能のしあわせ。

 そしていくつかの種類のしあわせは、時間の流れとともに変わっていく。手の込んだ料埋を作るのは、ずっと以前は私にとって確実なしあわせだった。若い日は泳ぐことがしあわせだった。今は「やるぞ」と思わないと手の込んだものは作らないし、できれば泳ぎたくない。あんまりすんなりと変わっていくから、それをしあわせと思っていた自分のことを忘れてしまう。ときどき、何かの拍子にふと思い出す。今ではまったくやらなくなった何かに没頭して、ささやかながら全身からしあわせ感がにじみ出ている自分のことを思い出す。過ぎ去ったしあわせを思い出すと、なぜかかならず、ちょっとさみしい。

 角田光代=文 作家 1967年神奈川県生まれ。デピュー作「幸福な遊戯」(海燕新人文学賞)をはじめ、「対岸の彼女」(直木賞)。「八日目の蝉」。(中央公論文学賞)など多数の文学賞を受賞。ほかの著書に『坂の途中の家』『源氏物語』(翻訳)など。

和尚からの蛇足

 みなさんはこの著者が書いているように「しあわせとはなんだろう?」と考えたことはありますか。わたしにはない。もちろん、ふっと「しあわせだなあ」と感じることはあっても、「しあわせとはなんだろう?」とは考えない。

 だからこの表題の「しあわせの種類」という言い方は意外であった。一種類ではないというのも分かるが、「自覚するしあわせと、自覚しないしあわせ」という言い方も意外である。人それぞれにいくつもの「しあわせ」があり、それを「自覚」にこだわらずに感ずる。

 こうなって欲しいという願いがあり、それを大切に守っていく。必ずしもそれがかなうとは限らないが、かなったときには満足感としあわせを感じ、感謝の念をもつ。

 またこうなって欲しいということを越えた、予想もしていなかった場面や光景に遭遇したときにも同様に満足感としあわせを感じ、感謝の念をもつ。

 どちらにしてみても「自覚」を離れたところにあるように思う。上に書いたように個々それぞれの感じ方なので、私はそう思うという範囲でしか言えない。「過ぎ去ったしあわせを思い出す」ということもなかったように思う。

 つくづく思うのは、「しあわせ」とは個人独自であり、ナイーブなものであることである。中には「不しあわせ」と思ったことはあっても、「しあわせ」など思ったこともないという人もいるかもしれない。
 「しあわせ」という言葉にとらわれずに、充実した人生、精一杯の人生を送れるように、人に対しても自分に対しても願っている。

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