ただ、立っておるのだ(無住禅師)
2020.10. 2
横田南嶺老師のブログより
(唐代の禅僧、保唐寺)無住禅師は、私たちが学んでいる臨済禅のもととなる馬祖の教えに、大きな影響を与えた方です。
この無住禅師という方は、礼拝も懺悔も念誦も許さず、ただ空しく閑坐するのみであったといいます。
「総てなさず、只没(しも)に茫たるのみ」といって、なにもせず、ただぼうっとしているだけだったというのです。
ぼうっとしているようで、同時に活パッパッ(魚+發)といって、生き生きしているのです。
いつも生き生きとしていて、いつ如何なる時でも、禅でない時がないというのです。
そんな無住禅師が譬えを用いて説法されています。
原文は『歴代法宝記』という漢文の書物ですが、小川隆先生の、分かりやすい現代語訳を参照してみます。『禅思想史講義』(春秋社)から引用させていただきます。
それがしが一つ、例え話をして進ぜよう
とある一人の男が、小高い丘のうえに立っておった。
そこへ、三人の男が連れだって通りかかる。
遠くに人が立っているのを見て、三人は口々に言い出した。
「あのお人は、家畜を見失のうたのであろう」
「いや、連れとはぐれたのだ」
「いや、いや、風にあたって涼んでおるのだ」
こうなると、言い争いになって収拾がつかぬ。
それで近づいて行って、当の本人にたずねてみた。
「家畜を見失われたので?」
「いや」
「では、連れのお方とおはぐれに?」
「べつに」
「なら、風にあたって涼んでおいでで?」
「ちがう」
「はて、そのどれでもないとなると、こんな高いところで、いったい何の為に立っておいでで?」
「只没に立つ――うむ、ただ、立っておるのだ」
というのです。
小川先生の手にかかると、難しい漢文も実に分かりやすい訳となります。本来はこのような生き生きとした会話なのでしょう。
「いかなる意義にも目的にも結びつけられず、「只没(ただ)」そうあること、「只没(ただ)」そうすること、それだけです」と小川先生は解説されています。
この無住禅師は「無念」であることを説きました。「残念無念」の無念ではありません。
小川先生の解説によれば、
「「無念」であることは、実際にはあらゆることを「只没(ただ)」やるのみであるほかありません。……
すべてを「只没(ただ)」やるとき、あらゆる行為はおのずと「活パッパッ」となり「一切時中総て是れ禅」ということになるのでしょう」ということなのです。
「ただ立っているのだ」
という言葉には、理屈を超えて何か清々しさを感じます。
あれこれと意義や理論を付けたくなるのがお互いですが、「ただ立つ」それでいいのだと
思うと爽やかな気持ちになります。
ですから、坐る時には、ただ坐る、ご飯を食べる時にはただ食べる、歩く時にはただ歩くのみ、そんな処にこそ本来の禅が生き生きとしていたのでしょう。
それがどうも作法や何かと煩わしくなってしまいました。
和尚からの蛇足
これも円覚寺派管長横田南嶺老師のブログからの引用になる。
唐時代の禅僧、保唐寺の無住禅師の逸話です。
たいへん分かりやすい例え話を読み、唸(うな)ってしまった。
「いつも生き生きとしていて、いつ如何なる時でも、禅でない時がないという」ことを例え話で説明するのに使われた話がこれなのである。
これを言葉で説明しようとしたら如何に難しいかは少し考えただけですぐ分かる。考える前に頭を抱えてしまいそうだ。
あなたなら「いつも生き生きとしていて」というところをどういう言葉で説明するでしょうか?
さらに「いつ如何なる時でも、禅でない時がない」というところをどういう言葉で説明するでしょうか?
それを――すべてを「只没(ただ)」やるとき、あらゆる行為はおのずと「活パッパッ」となり「一切時中総て是れ禅」ということになるのでしょう」――ということだと説いている。
あざやかだと思いませんか?だからつい唸ってしまったのだ。たしかに生き生きしている。こうでなければならないと端的に示されている。実行することの容易ならざることは言うまでもないが、このこと(「只没(ただ)」やる)を常に頭に置いてものごとに当たれば目が覚めるときが来るであろうと信じている。