コロナ時代に問われる仏教者の覚悟 鵜飼 秀徳

2020. 7.17

 私は京都の浄土宗寺院の副住職であるが、コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言下、印象的な葬儀を経験した。亡くなったのは一○八歳のおばあさん。本来ならば、大勢で長寿を讃えつつ、盛大にお浄土に送ってあげたくなるような、大往生である。
 だが、葬儀会場はしんと静まり返っていた。儀式の最中以外はマスク着用が求められ、職員の立ち合いも最小限。葬式に参加したのは高齢の子供三人だけであった。遠隔地に住む孫、ひ孫は参加できなかった。棺の上にはひ孫からと思われる手紙が置かれていた。切ない思いがこみ上げてきた。
 遺族は病院に見舞いに行くことも叶わず、看取りもできなかった。遺族はこう話した。
 「病院のお見舞いが禁止になったことで、おばあちゃんの唯一の楽しみだった家族との面会が途絶え、急に容態が悪くなっていきました。コロナによって命を奪われたのと同然でしょう」
 寂しい葬式ではあったものの私は平時の葬儀と何ら変わりなく、丁寧にお勤めさせていただいた。こういう非常時こそ、僧侶は故人の尊厳を大事にし、遺族の悲嘆にきちんと寄り添うべきだと感じた。
 コロナ感染症の拡大は、仏教界に数々の悩ましい問題を突きつけている。僧侶が感染を恐れるあまり、葬儀・法要などの儀式を僧侶のほうから拒否したり、感染防止と言って山門を閉じたりするケースが相次いでいる。寺や僧侶がウイルスの媒介者になってはまずいが、過剰な防衛は諸刃の剣ともなりうる。感染防止か、寄り添いか。その判断を誤れば、仏教の地盤沈下にもつながりかねない。私自身、コロナ時代における「究極の判断」に迷うこともあるが、自戒を込めつつ、いくつかの事例をもとに考えを述べたいと思う。
 五月二〇日付文化時報の社説は「遺体を怖がる僧侶」と題して、こう論じている。
 「ある僧侶のグループは、感染謀患者の遺体から感染することを警戒し、早急に火葬して遺族との接触を避けるよう推奨した。遺族にもそう勧めることや、僧侶が火葬への立ち会いを拒むことまで認めている」
 一方で五月十九日付東洋経済オンラインでは、「新型コロナでも普通の葬儀ができるはずだ」と題する記事が掲載された。国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウイルスセンター長の西村秀一院師のインタビューである。タレントの志村けんさんや岡江久美子さんの遺族が、最後のお別れや立ち会いができなかった例を挙げつつ、西村医師は、「日本中でそんなことが行われているのか。悲しみに暮れる遺族の心をさらに踏みつけるような仕打ちだ。(中略)遺体に触らなければ何の問題もない。新型コロナよりも怖い病気はいっぱいあるが遺体について今回のような扱いはしていない。たとえば、多剤耐性(薬の効かない)の結核だとか、エイズだとか、肝炎で亡くなった場合でも今回のような指導はしていないし、それでも遺族に感染したという話は聞いたことがない。なぜ、今回は別なのか」と憤っていた。
 この記事自体は葬送従事者の対応を諌〔いさ〕めるものだったが、遺体の近くで引導を渡す仏教者にも向けられた言葉でもあると捉えてよい。
 文化時報の記事も、西村医師も「死に関わるプロは、もっと覚悟をもて」と.言っているのだ。このコロナ禍にあって、僧侶の思考や哲学、知恵、立ち振る舞いが試されている。

 しかしながら、仏教界の動きはどうも画一的だ。とくに緊急事態宣言後、山門を閉じた拝観寺院が続出したことに、私は少なからず懸念を抱いた。
 大勢が集まり「三密」が心配されるような祭事の中止は、いたしかたないかもしれない。だが、多数の観光客が集まることなど考えられない状況の中で大寺院が、ライブハウスや飲食店並みに山門を閉じてしまった。寺は観光の場である以前に、祈りの場であるはず。これでは、寺が観光目的、営利目的であったと自ら認めるようなものだ。
 世間が不安にかられているこのコロナ時代にあって、むしろ拝観寺院は絶望の淵にある人や、地域の人のために無料開放すべきだったと思う。実は御室仁和寺〔おむろにんなじ〕は普段は山門のところで拝観料を徴収しているのだが、緊急事態宣言が出てからは仏堂以外の境内の開放を決めた。私は仁和寺のその態度に「かくあるべし」と、心の中で拍手を送っていた。閉じる寺と開く寺。コロナ感染拡大の中で、対応がふたつに分かれたことが興味深い。
 大事なのは仏教界の対応を、社会がどうみているか、を想像すること。遺体や遺族との接触を避けたがる僧侶や、率先して門を閉じる寺院に冷ややかな目を向けてはいまいか。私はとても心配している。なぜなら、これまで多くの「失望」が、仏教離れ・寺離れを引き起こしてきた要因であるからだ。コロナ禍をきっかけにして今後、シンポジウムや宗議会の場などで、寺院のもつ公共性について、しっかりと議論していくべきだと思う。
 厳しい言葉が多くなったが、急激な変化に仏教界がさらされる中で「新しい価値」が生まれてきたことも紹介したい。

 それが「オンライン(リモート)葬儀・法要」である。オンライン葬儀・法要とは供養の場に集まれない親族に向けて、儀式の動画をネット中継する試みだ。急激に全国の寺院で広がりを見せている。
 栃木県の浄土宗寺院では、四月下旬の一件の法事をきっかけにして、本堂に急遽〔きゅうきょ〕 Wi-Fi設備を整えることにしたという。この檀家は平時では、常に親族一同十数人がお寺に集まるような熱心な人々だったが、今年参加できたのは三人のみ。その際、施主からオンライン法事の提案を受けた。
 「コロナで来られない親族や、海外にいる親族のために、スカイプを使ってライブ中継してもよいか」
 住職が読経しているところや、焼香のシーンを、施主がカメラで撮影した。
 「ゴールデンウィークは普段ならば、子供・孫の帰省に合わせた法事が多い時期です。しかし、コロナの影響で、このところの法事件数は例年の九割減。そんな時に、僧侶仲間や今回の施主さんからオンライン法事の可能性を知りました。オンライン法事があれば万全ということはあり得ませんが、寺側は選択肢として持っておいたほうがよいと感じています」(住職)
 だが、リモートでの供養に慎重な姿勢を見せる僧侶もいる。長野在住の僧侶(四〇代)はいう。
 「オンライン葬儀や法事の枠を超えて、そのうち録画配信する寺も出てくるのではないか。録画では、『遺族との思いの共有』は無理でしょう。対面での儀式を基本にしつつ、感染症の蔓延時やどうしても寺に足を運べない人に対してはオンラインで対応するということに留めないと、宗教儀式のあり方そのものが変わってしまう危険性があります」
 確かに、オンライン法要の広がりは今授、仏教離れを加速させるのではとの懸念を生む。「先祖供養はオンラインで十分」とする考えが広がっていく可能件がある。葬儀社が近年、仲間のニーズに合わせて直葬や家族葬を取り方れすぎた結果、「直葬や家族葬で十分」とする風潮が急拡大していったように。

 オンライン法要では厳粛な儀式をパソコンで見ながら、隣ではテレビを付けていたり、家事と両立させようとしたりする人もいるかもしれない。儀式がカジュアルになり過ぎるのも考えものだろう。
 仏事は伽藍の雰囲気や読経の臨場感が相まみえることによって神秘性が生まれる。実際にお花を持ってお寺に行き、荘巌な空間に身を委ねてご本尊に手を合わせ、お墓参りをするリアル体験をするに越したことはない。
 だが、私はどちらかといえば、リモート供養賛成派である。どうもデジタル用語が一人歩きしている感がある。オンライン法要を「遥拝〔ようはい〕」と捉えれば特段、奇異なことではないだろう。遥拝は神仏の存在を感じながら、お浄土の方向や遠く離れた神社仏閣の方角に向かって礼拝することである。メッカの方角に向かって祈りを捧げるイスラムの礼拝も同様だ。
 それに、日本人は昔からリモート供養を行ってきたではないか。それが各家庭にある仏壇だ。仏壇は「あの世」とのチャネルであり、いつでもご先祖様や仏様に手を話せることができる、よく考えられた「家庭内寺院」である。
 仏壇は江戸時代に庶民の間に普及した。当時も天然痘やコレラなどの疫病がしばしば蔓延しており、仏壇に仏飯を備え、手を合わせて病気平癒を祈る庶民が多数、いたことだろう。ライフスタイルの変化によって、昨今の仏壇の需要は低迷していると聞くが、むしろこの時勢の中で、見直されてもよいと思う。
 仏壇に日常的に手を合わせている人は、お寺での法要や墓参りも熱心な傾向にある。その理屈でいえばオンライン法要をやってほしいと願う人は、平時に戻ればまた、お寺に戻ってくるのではないか。
 大事なことはオンライン法要は、あくまでも緊急時における供養手段のひとつに過ぎないということを、認識すること。オンライン法要が目的と化してしまえば、きっと仏教の地盤沈下につながっていくことだろう。供養したいと願う遺族と、供養を手向けたいとする僧侶の気持ちとが共鳴できるか、どうかが肝心だ。

 オンライン葬儀・法要のメリットは、コロナウイルス感染防止に寄与するだけではない。寝たきりの高齢者、足の悪い人、海外在住の親族らも法要に参加することができる。コロナ禍が収束した後は、リアルな供養を大切にしつつ、高齢化、核家族化社会の中でオンライン法要も活用されていくことに期待したい。
 ここ数か月、私は何人かの知人に立て続けにこう言われた、。
 「コロナ禍で、仏教に救いを求める人が増えていくのでは。社会不安の時こそ、宗教は強いね」
 常に社会の要請に応えられる僧侶や寺院でありたいものだ。

           (臨黄会報第53号より)

 鵜飼秀徳 (うかい しゅうとく)
 一九七四年、京都市生まれ。大学卒業後、新聞記者、雑誌副編集長など経て独立。現在、正覚寺副住職の傍ら、一般社団法人良いお寺研究会代表理事、フリージャーナリストでもある。「宗教と社会」をテーマに取材、執筆を続ける.二月の第十五回臨黄教化研究会の講師を務める。

和尚からの蛇足

 この文章は臨済宗・黄檗〔おうばく〕宗の寺院向けの「臨黄会報」に掲載されていたものです。一般向けではなく寺院向けのものなので、躊躇しましたがこの現在の状況下で起きていることを考えるのに参考になると思い載せました。

 すべての人にいま問われているのはコロナウイルスにより、あなたの生活はどのように変わり、この事態をどのように考えているのかということです。置かれている立場や環境によって様々だと思うが、これまで何の疑問も思わずにやってきたことが同じようにできないことに慌てている人や悲観している人が少なからずいるのである。

 それは宗教の世界でも例外にもれず色々なことが起き、ある人は戸惑ったりまたは無視して今までのようにしようと思う人もいるだろう。これは宗教者・一般の人 双方に言えることである。
 この文章の著者である鵜德師はそのところを宗教者に対し、「仏教者の覚悟」という視点で意見を述べている。日常起きていることは僧侶や寺院に限らずすべての人に突きつけられていることでもある。「寺院の公共性」ということも飲食のお店や娯楽関係の施設・イベント開催などにも「公共性」は問われる。宗教界だけの話ではないだろう。

 仏教界でのオンライン葬儀や法要も新しい試みであるが、産業界ではビジネスマンのテレワーク、教育界では生徒・学生のリモート学習と同様新しい流れの中で急速に注目されるようになってきた。これも世の中が変わったと言うより、新しい手段方法が加わったと受けとめた方がいいと思う。あくまでも基本はなんにも変わらない。今までなかったやり取りや対話・会合の方法が出てきただけなので、今までの基本のことと並行して行っていけばいいだけである。

 目新しいからと飛びつき、根元から変えるのではなく、基本を忘れずにいなければ足もとから掬〔すく〕われることにもなりかねない。その上でいつでも「社会の要請に応〔こた〕えられる」ようにはしていなければならないということである。

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