坐禅修行について――南岳磨甎〔なんがくません〕

2019. 8.23

 坐禅を行ずることは、坐禅弁道・坐禅学道・坐禅参究という語でいうように
仏道を成ずることです。
それについて考えるに「南岳磨甎」という話しを参考にして下さい。

【南岳懐譲】瓦を磨いて鏡となす
(六七七~七四四)

『伝灯録』に「南嶽磨甎」〔なんがくません〕という話があります。
中国では開元と言われる年頃、道一という沙門(お坊さん)が、伝法院に住んでいました。
彼は朝から晩まで、坐禅ばかりしていました。
南岳和尚がこれを聞いて、この男は見込みがあると見ると伝法院へ出かけていきました。案の定、道一は眼を瞑って頑張って坐禅をしています。

これを見ると南岳が、「お前さんは何の目的で、そんなに力んで坐禅ばかりしておられるんじゃな」と聞きますと道一は、「何とかして仏になりたい一心で」と答えました。
すると南岳は、どこからか一枚の瓦を持ってきて、庵の前の岩の上でそれを、ゴシゴシと磨き始めたのです。

道一が驚いて、「老師はそんなことをして、何になさいますか」と聞くと、「鏡を作ろうと思ってな」との答え。
「瓦を磨いても、鏡にはなりますまい」と言うと、「坐禅しても仏にはなれるまい」。
「それじゃ、どうすればよろしいのですか」と問い返すと、「人が駕(馬車)に乗って行くとき、車が止まったら車を打つがよいか、牛を打つがよいか」。
道一はグッと詰まってしまったのでした。

南岳は続けて次のように言われたのです。
「お前さんはそして坐禅を学び、坐仏を学びたいのであろう。
しかし、もし坐禅を学びたいのなら、禅というものはそんな格好の上にはないのだ。
また坐仏を学びたいというのなら、仏さんはそんなにじっと坐ってばかりいるものではない。
無住法(決まった形のない仕方)において、取捨してはならぬ(わざとらしくないのがいい)のだ。
お前のように格好ばかり仏さんでは、かえって仏を殺すことになる。また坐禅の姿にばかりに執著していると、とうてい真理には到ることはできまい」。
これを聞くと道一は醍醐(美味しいもの)を飲むような思いがしたという。
(『伝灯録』南岳懐譲の章)
『えしん和尚の禅語教室』(禅文化研究所ブログ)から

和尚からの蛇足

禅において坐禅は非常に重要な修行です。
この「南嶽磨甎」〔なんがくません〕の話はこれを考える上で、たいへん大事なことを伝えようとしています。
つまり、坐禅が、「仏になるため」「悟りを開くため」となってしまったなら、もう坐禅ではなくなってしまう。
坐禅という形にとらわれていたら、それはもう坐禅ではない。

そこのところを、
臨済禅師は、「わしが外には法はないと言うと、その真意を理解しないで、今度は内に求めようとして、さっそく壁に向って坐禅をし、舌でガク(月+咢)〔あご〕を支えて、じっと動かず、それを祖師門下の仏法だと思っている。大間違いだ」(『臨済録』岩波文庫)

  (「大徳、山僧が外に向〔お〕いて法無しと説けば、
学人会せずして、便即〔すなわ〕ち裏〔うち〕に向いて
解を作し、便即〔すなわ〕ち壁に倚〔よ〕って坐し、舌、
上齶〔じょうがく〕をささえて、湛然〔たんねん〕として
動ぜず。此れを取って祖門の仏法と 為是〔な〕す。
大いに錯れり。」『臨済録』示衆10-11)

唐代末期においても、坐禅という形にとらわれていた修行者がいかに多かったかを物語っています。

また臨済禅師が、「わしの見地からすれば、すべてのものに嫌うべきものはない。君たちが、もし〔凡を嫌って〕聖なるものを愛したとしても、聖とは聖という名にすぎない。修行者たちの中には五台山に文殊を志向する連中がいるが、すでに誤っている。五台山に文殊はいない。君たち、文殊に会いたいと思うか。今わしの面前で躍動しており、終始一貫して、一切処にためらうことのない君たち自身、それこそが活きた文殊なのだ。」(『臨済録』岩波文庫)

「山僧が見処に約せば、嫌う底(てい)の法勿(な)し。
汝若し聖を愛すれば、聖とは聖の名なり。
一般の学人有って、五台山裏に向〔お〕いて文殊を求む。
早く錯〔あやま〕り了(おわ)れり。五台山には文殊無し。
汝、文殊を識らんと欲するや。
祇(た)だ汝目前の用処、始終不異(ふい)、処処不疑(ふぎ)なる、
此箇(これ)は是れ活文殊なり。」(『臨済録』示衆7-2)

の段を引用して、祥福寺の木村太邦老師は次のように書いています。
「臨済禅師は言います。『わしの目の前で、わしの話す法を聞いている者ひとりひとりが真の文殊菩薩だ』と。これは、皆さま自身が文殊菩薩だということではなく、皆さまが一心に法を聞く、そこに真の文殊菩薩がはたらいているということだと思います。」

さらに、

「『色即是空 空即是色』を現実の生活にあてはめたら、どのようになるのか。臨済禅師のお言葉を拝借すれば、『嫌う底の法なし』だと思います。それだけで充分。物事がうまくいくかいかないか、それは仕方がない。けれども、たじろがずにぶつかっていく。結果は構わずに全身全霊でぶつかっていく。これが大事なのです。」

この中の「嫌う底の法なし」とは「(もともと嫌ったり愛したりする心がないのだから)すべてのものに嫌うようなものは何もない」という意味です。

そして、木村太邦老師は
「空に達する決め手はなかなか定まらないと申しましたが、決め手がないのではなく、各人の性格や心に応じて決め手が無数に存在するわけです。あらゆるものが仏法なのですから。しかし、こうすれば必ず空に達するとはいえない。せいぜい言えることは、坐禅してくださいということ。それが唯一の近道だと思います。」と言っています。

「坐禅」という執われをはなれて、何事にも全身全霊でぶつかっていき、はじめて坐禅をすることに戻る。そこに大きな示唆を感じます。

参考:木村太邦老師『嫌う底の法なし』(2016年うらぼん号法光誌)
松原信樹「坐禅について」―臨済禅とは何か(十二)―(2019年4月号正法輪)

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