増毛の海があったからこその料理人生 三國清三(フランス料理シェフ)

2020. 6.12

NHKラジオ第1 2019年9月28日放送「明日へのことば」より

 1999年の映画「ぽっぽや」のロケ地としても知られている増毛町、この町で生まれ育ったのがフランス料理の世界的シェフ三國清三さんです。
「なにくそ」で自身を盛り立てた半生、三國さんに伺います。

 家の親父が漁師で、おふくろが農家をやっていて、増毛はニシンが一杯取れて昭和28年にニシンが取れなくなった、その翌年昭和29年に生まれました。
 兄弟7人で男が5人で、僕は清三で、兄貴が清一、で番号になっています。
僕の歳ぐらいから高校に行くのが当たり前の歳になりました。
 町でも1,2の貧乏で姉ふたりも中学を出て出稼ぎ、兄ふたりも大工、みんな仕送りをしてきても貧乏でした。
 母は早朝3,4時にちょっとした朝食を作ってすぐに父と一緒に畑に行っていました。
高校に行きたくても親には言えず、先生に相談したところ、米屋の丁稚奉公で夜間学校に行けるという話がありました。
 卒業して米屋の丁稚奉公に入りました。
すぐ前に学校がありました。
30㎏を3個担いで配達に行きました。
 フェンス越しにテニスをやっている学生を見てあいつらだけには負けたくない、と思いました。
 「なにくそ」というその気持ちがそのあとの人生の原点になりました。
「何苦曽〔なにくそ〕」という風な言葉を座右の銘にしている野球の人は三原さん始め、いるそうです。
「人生は何事も苦しい時が自分の基礎を作るのだ」という意味だそうです。

 或る日奉公先の姉さんがハンバーグを出してくれて、いったいこれは何だろうと思いました。
黒いソースが甘酸っぱい味がしました。
ソースと一緒にハンバーグを食べたらめちゃめちゃ美味かった。
このハンバーグに恋い焦がれてしまいました。
 札幌グランドホテルに行けばもっと100倍おいしいとお姉さんから言われ、札幌グランドホテルが15歳の僕にインプットされました。
札幌グランドホテルに行けばハンバーグが作れるんだと思いました。
 入るにはどうしたらいいかと思っていたところ、卒業記念に札幌グランドホテルでテーブルマナーがあるという事で行くことになり、テーブルマナー終了後洋食の厨房に行って、後ろに隠れていました。
 そこに青木さんが来て、どうしても札幌グランドホテルで働きたいといいました。
中卒でも従業員食堂のおばちゃんがたのところはパートだから学歴関係ないから、明日からくるかといわれて、明日から米炊きやるかといわれて、米炊きに入りました。

 ホテルの洗い場を6時から10時まで一人でやりました。
半年後、青木さんと人事課の人が話し合って、明日から正社員だと告げられました。(16歳)
 青木さんは札幌グランドホテルの最初の料理長の息子さんで一番仕事もできた方で、特例で社員にさせていただきました。
 12時で仕事が終わって寮に帰らずに料理の勉強をしました。
17,8歳になると一通りの料理ができるようになり鼻高となり、先輩と喧嘩したりしました。
 東京の帝国ホテルには村上さんという料理人の神様がいて、お前なんかは足元にも及ばないといわれました。
 神様といわれる村上さんに会いたくて、18歳の時に青木さんに頼んで、紹介状をもらって一人で帝国ホテルに行きました。
 オイルショックで希望退職を募っていて、社員にはすぐにできないが厨房で順番を待っていたらそのうち社員になれるので、洗い場だったらすぐに入れてやるという事で、洗い場に入りました。

 3年間洗い場にいて挫折感を感じました。
札幌グランドホテルはコックさんが50人いましたが、帝国ホテルは650人でした。
20歳の誕生日を迎えて、ひっそり増毛に帰ろうと思いました。
18のレストランがあり全部の厨房の洗い場をやってひっそり帰ろうと思いました。
それからその仕事分の給料はもらわずに毎日やりました。
 10月ごろに村上料理長に呼ばれ、650人の料理人の中から一番腕のいい料理人をすぐ年が明けたらジュネーブの大使館のコック長に一人紹介してくれと社長から言われたという事でした。
お前に決めたといいました。
 想定外だったので、びっくりしましたが増毛を思い出し、3秒してハイと答えました。
貰った給料は自己投資をして、10年後には君たちの時代が来るからちゃんと修行をしなさいと言われました。

 大使館は天皇の代わりにおもてなしをするわけで、晩餐会をするので用意するように言われました。
 当時20歳でフルコースなんて知りませんでした。
フルコースだという事で、アメリカ大使がいつも行っているフルコースを食べるレストランを調べることになりました。
 3日3晩、アメリカ大使が食べるフルコースを仕入れから料理まで全部勉強しました。
当日、アメリカ大使が吃驚して、日本の大使にどうして俺の好みを知っているんだ、素晴らしいと言っていただきました。
 ほかの国からも来るのでそのたびに研修にいって、暗記して料理を出して評判を得ました。
 「モーツアルト」と呼ばれたフレディ・ジラルデさんはロザンヌにいて、後に彼は世界一になるが、彼のうわさを聞いて日曜日にジラルデさんのところに通うようになりました。
 そこで教わった料理を毎回出すようになり、ますます評判が上がりました。
 2年間の約束が4年間を勤めするようになりました。
 ジラルデさんは天才ですよ、彼は命を懸けています。
 本気に命を懸けてフランス料理を作らなければいけないんだと学びました。

 僕が27歳の時に当時アラン・シャペルさんは厨房の「ダビンチ」といわれていました。
彼のところで修行しました。
 日本で自分の好きなフランス料理を本気で作ろうと思って28歳で帰って来ました。
 28歳で帰ってきてから、30歳で四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープンしました。
 青木さんから始まってみんな怖い人でしたが、表面的に怖い人って懐に入ると、めちゃめちゃ面倒見がいいんです。
 「お前ね、自分の家だと思ってやれ」とよく言われました、家族ですよ。
許容量を感じました。
 北海道の後輩佐藤君他みんな我々の時代から比べたらすごい活躍をしています。
自分がオーナーでミシェランの星をとるんですから。

 僕の味覚を鍛えたのは貧乏です。
 味覚体験は12歳までにさせていかなければいけないが、僕は増毛でホヤを食べて、甘い、しょっぱい、うまみなどの5つの味覚がホヤには全部入っていました。
ホヤが僕の味覚を鍛えてくれました。
 世界ラグビー大会の顧問と2020年のオリンピック、パラリンピックの顧問をさせていただく事になりました。
 日本中の料理人を集めてみんなで世界的な高い水準の料理をこさえて、全国に料理人が散らばって料理人のレベルを上げていければなあと思っています。
 ありのままの姿を求めて外国からは来るので、皆さんはそういったおもてなしをしていただければいいと思います。

三國 清三氏
 1954年、北海道出身。15歳で料理人を志す。国内で修業後、駐スイス日本大使館の料理長に就任。【トロワグロ】等で研鑽を積み帰国し、1985年、東京・四ッ谷に【オテル・ドゥ・ミクニ】を開店。以来30年以上、自身の名を冠した責任とブランドを重んじ、実直に料理と向き合い続けています。2013年、フランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与され、2015年、フランス共和国より「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」を受勲。近年では2019年ラグビーワールドカップの組織委員会顧問や、2020年に行われる東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問を務めるなど幅広い分野にて活躍中。

 

和尚からの蛇足

 これは三國シェフの郷里に近い会場で収録された講演会の記録です。ラジオで放送されたものを聴いた。聞き始めると興味深い話で、ご自身が体験されたその内容に引き込まれた。いくつもの貴重なことが含まれ、興味をそそられた。

 今では三國シェフといえば、大変有名であるが、生い立ちやその苦労をきくと並大抵でないことが分かってきた。様々な人との出会い、尊敬する人たちの教えや援助などによってその地位を築いてきた話は非常に刺激的である。

 そこには「なにくそ」という辛抱と骨折りや苦しみの中で鍛えられ、磨かれ、努力を通し様々な工夫をしてきたものであろう。実際のところは語り尽くせないものがあったことは想像できる。言葉に出して伝えられるのはほんの少しだけであろう。

 最後の方で話されている
「僕の味覚を鍛えたのは貧乏です。
味覚体験は12歳までにさせていかなければいけないが、僕は増毛でホヤを食べて、甘い、しょっぱい、うまみなどの5つの味覚がホヤには全部入っていました。
唯一「五味」が存在する食べ物がホヤなんですよ。
ホヤが僕の味覚を鍛えてくれました。」
という言葉の重みには感動した。

 話の中で次のようなことも話されていた。食べるものに苦労して海が荒れたあとは、必ず食べ物を探しに浜に行ったのだそうだ。そこに吹き寄せられてあったのがホヤなどであったとのことだ。それが本当の三國シェフの基礎を作ったのだ。これは見落とすことができない、そして「なにくそ」という気持ちが原点となって今日の三國シェフを作り上げてきたのである。これらのことから何を学びとるかはそれぞれであろう。身の回りにある物や事柄の大切さをつくづく思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA