大河の一滴 (五木寛之)

2020.11. 6

 人間はただ肉体として生きるだけでなく記憶のなかにも、そして人間関係のな
かにも生きている。その人間の死が完成するまでにはやっぱり十カ月や一年ぐら
いかかるのじゃないか。これがぼくのかたくなな考えです。

 人間的な死ということを考えないで、科学的な生理的な死ということだけで死
者というものを取り扱う、それはおそらくいろんな犯罪とどこか根のところで結
びあってくるのではなかろうか。人間の命を軽く扱うという点において、そのこ
とを私は考えざるをえません。

 人間は死んでいくのだ、死んだだけではなくて、死んでいくのだ、というふう
にぼくは思います。人間の自発的呼吸が止まるなどいくつかの条件を満たすと脳
死と判定されますが、脳死というのは未完の死ではないか。死が完成するために
私たちは誕生と同じように、十カ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかも
しれない。私たちはそのあいだに静かに、死んでいった人たちを死者として送り
だす。そして死を完成させ、自分の心のなかに死の固定というか、準備と落ち着
きとをもってその人をなつかしく思い返すことができる時がくる。

 人間の死というものは記憶のなかにもあり、心のなかにもあり、そして人間と
人間のつながりや家族の思い出のなかにもあります。ただ科学的な死だけが死で
はない、ということを、あまり論理的ではありませんが、これからも考えていこ
うと思っています。

  『大河の一滴』五木寛之著(pp109-110)より

和尚からの蛇足

 このコロナ禍に襲われ、私たちは色んなことを考えざるを得なくなってきている。普段から考えていなかったわけではないが、降って湧いたようにこの事態に遭遇し戸惑いながら持て余した時間の中で自己を見つめる機会を得た。

 今、『大河の一滴』(五木寛之著)が読まれるようになったと新聞に出ていた。私も十年以上前に買っておきながら読んでいなかったので、今になってやっと読み出した。さすがに五木寛之氏の目は四方に向いているので深めてくれる。そもそも題名の「大河の一滴」は次の文章から付けられているようである。

 「空から降った雨水は樹々〔きぎ〕の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸いこまれるc。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流〔けいりゅう〕は川となり、平野を抜けて大河に合流する。
 その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁〔にご〕った水も、汚染〔おせん〕された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水〔あまみず〕となって地上に注ぐ。」(pp27-28)

 「大河の水の一滴が私たちの命」だという雄大な世界観に何かしら熱いものを感ずる。自分の命というものをそういう風に見ることができる心の広さを持ちたいと思う。

 今回はじめに引用した文章は「人間の死」についてのとらえ方である。「死んでいく」のであり、「死が完成するために私たちは誕生と同じように、十カ月や一年ぐらいの時間を必要としているのかもしれない。」という。「人間の死」を受け入れるということは大変なことなのだという。しかし中には何年経っても身内・親しい人などの死を受け入れない人がいる。それでもやがて「準備と落ち着きとをもってその人をなつかしく思い返すことができる時がくる。」ということは救いである。これからも見つめていきたい。

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