幸せな気持ちになるのは 藤永 茂

2020.11.13

幸せな気持ちになるのは 藤永 茂

          幸せって何だろう(JAF2019 1月号)より

『(中略)
 92歳を超えた私は、この春で『桜や藤も見納めかも、と思って』しまう。今の日々の生活で、こよなく幸せなのは、ヘッドフォンを頭につけてクラシック音楽に聴き入る時だ。老人ホームの2人用1LDKに住む私は、雑事を終えた夜更けに、小さいウォークインクロゼットの中に設けた〝書斎〟で、CDとカセットテープに聴き入る。年に一度の桜の花と違い、好きな曲は何時〔いつ〕でもセットできる。しかし、聴きたい曲は数多〔あまた〕ある。持ち時間はあと僅〔わず〕か。つい、「あと何回?」という想いが走る。モーツァルトのピアノ協奏曲第23番 K488の第2楽章、とりわけ、そのコーダの単純な単音の連なりーーー死ぬまでに、あと何度聴けるだろうか? バッハのシャコンヌ、あと何回聴き通せるのであろうか?

 

「私は、私より幸せな人たちの長い列のどん尻にいるが、私より不幸せな人たちの長い列の先頭にいる」という意味の言葉に、遠い昔、何処〔どこ〕かで出会った。モンテーニュの随想録だったかも。言葉は、それ以来、私の中に住み着いた。日本には、昔から、「上〔うえ〕見りゃ切りなし、下〔した〕見りゃ切りなし」という言葉もある。諦めと慰めの言葉であろうが、不幸に苛〔さいな〕まれる沢山の人々がいることを忘れないための戒〔いまし〕めでもあろう。私には、来世に生まれ変わって、列のもう少し前の方に並びたい気持ちはない。むしろ、この現世で、あれこれいじめられて辛い日々を強いられている人々がなるだけ少なくなって欲しいと思う。』

藤永 茂=文
Shigeru Fujinaga
物理学者、文筆家。1926年満州生まれ、福岡育ち。九州大学教授、カナダ・アルバータ大学教授を歴任。
現在は福岡の老人ホームで妻を介護しなから、時事プログ「私の闇の奥」を執筆。近著に『オペ・おかめ』=電子書籍)。

和尚からの蛇足

 またかと思われるかもしれないが、今まで二回ブログに載せたの「幸せって何だろう」と言うシリーズのコラムからの引用である。「幸せって何だろう」と考えるとつくづく奥が深く人それぞれの個性が出るものである。

 若い人が思うことと長い人生を過ごしてこられた方との違いは文章の中ににじみ出ているものである。藤永 茂氏は紹介の中に出てくるように老人ホームで暮らしているようである。そこでの楽しみはCDとカセットテープで聴くクラシック音楽の名曲で、モーツァルトのピアノ協奏曲でありバッハのシャコンヌであるそうだ。そういう楽しみがあることがどれだけ人生を豊かにしてくれるかは計り知れない。

 昔出会った「私は、私より幸せな人たちの長い列のどん尻にいるが、私より不幸せな人たちの長い列の先頭にいる」という言葉が心の中に住み着いているという。

 ある意味ではそういうニュートラルな気持ちをもって言えるが故に「私には、来世に生まれ変わって、列のもう少し前の方に並びたい気持ちはない。むしろ、この現世で、あれこれいじめられて辛い日々を強いられている人々がなるだけ少なくなって欲しいと思う。」という謙虚な言葉になっているのだと思う。それは慈悲の言葉でもあるといえる。

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