“心の痛み”と生きる 中島信子(児童文学作家)
2020. 3.27
インタビュー
中島信子(児童文学作家)
中島さんが今年出版した児童文学作品「八月のひかり」がおよそ20年ぶりの作品として発表され、大人にこそ読んでほしい本として話題になっています。
テーマは子どもの貧困、厚生労働省によると日本では17歳以下の子どもの7人に一人が貧困状態にあり、先進国の中で極めて深刻な水準です。
私は姉と弟がいますが、姉が生まれる時に父は太平洋戦争で出征するときと重なって、残していくことの思いがあって、父は無事に帰ってきて私と弟が生まれました。
母親は二人目の時に男の子が欲しかったが、女の私でした。
父は姉、母は弟への思いが強くて、何となく疎まれているような思いがありました。
小学校の3年生の時に、年がら年中母に叱られていまして暗い夜に外に出されていましたが、弟が何かで叱られて、その時初めて弟が外に出されました。
物凄く外で泣いている声が聞こえて、私も外に一緒に出てあげるよと言えば、弟も家の中に入れてくれるものとおもっていったら、「じゃあ、あなたも外に出ていなさい。」といったんです。
怖くないよと弟を膝に抱いて歌を歌っていたら、母が雨戸を開けてオレンジ色の光が漏れてきて、弟は縁側を走って行って母に抱かれたんです。
今日はいいことをしたなと思ったんです。
母のところに行ったら、弟を抱いた手のもう一方の手で私を押したんです。
「信子は自分で出たいといったんだから出ていなさい。」と言ったんです。
雨戸を閉められてしまい、漏れていたオレンジ色の光が消えて一層暗く感じました。
母は間違えているんじゃないかとずーっと待っていましたが、開かなかったんです。
どんなことがあっても泣かなかったんですが、その時は声が漏れないように拳固を口に当てて泣きました。
今日はいいことをしたのになんで判ってくれないのか、心の中でいつか大人に子どもの心ってこういうものなんだよと、絶対判ってほしいと願いました。
母が雨戸を開けて、漏れてきた光を鮮明に覚えています。
夕焼けの色はこういうものだとか、雪の冷たさはこういうものだ、嘘もついていないのに平気で嘘をついたという事など、しっかり記憶しておこうと思ったのが原点です。
子どもって本当に純粋で大人よりも繊細です。
大人の一言で相当いろんなことが認知できるんです。
行きついた先が児童文学だったんです。
親にとっては子どもは何人もいるのかもしれませんが、子どもにとってはお母さんは一人、お父さんは一人なんですよね。
短大卒業して出版社に勤めて体を悪くしてしばらく休むことになり、家にいると母と一緒になり、「若いのになぜ働かないの」といわたりして、希望が無くなりました。
読んりだ本のジェーン・エアが自分事のように思えて、自殺を考えて遺書をしたためて机に遺書を置いて、高崎で降りしきる雪を観ながら回顧していたら、そうだ私にはロチェスター(ジェーンと恋に落ち結婚する)の夢があるんだと思いました。
彼と出会ったのが23歳の時で16歳年上なので当然結婚していると思っていましたが、手を握ったときには暖かくて、母の手だと思ってずーっと歩いているときずーっと泣いていました。
母に抱いてもらったり手を握ってもらった記憶はありませんでしたが、母の手でした。
夫は優しくて母のような手でした、豊かな愛をもらったような気がします。
2010年に夫を失って、改めて命の尊さを思い知り、そのうえでの「八月のひかり」なんです。
※中島信子(児童文学作家)
中島さんは1947年生まれ長野県の出身現在72歳。
1970年代に「薫は少女」でデビューし、「お母さん私を好きですか」など、子どもの心の痛みを描いた数々の作品を世に送り出してきた。
2000年代になって執筆から離れていた。
和尚からの蛇足
ラジオでこのインタヴューを聴き、考えさせられたことがあった。今子どもたちがおかれている食の貧困やいじめのことである。
そのことを考える原点ともいうべき自らの体験を中島さんは話された。それがあったために児童文学の道に進まれたのである。少しショッキングに聞こえたが、もしかしたら珍しいことではないのかもしれないと思った。児童虐待ニュースに接することがあまりに多いのではと感じているからである。
話を聴きながら、原点ということで「それでは自分の原点は何か」と考えた。自分がこの道(坊主)に進んだ原点は何だろうかと。
父はサラリーマンで、私がこの道に進みたいと言ったときに家中で反対され、変わった子だと言われた。修行道場に入ると生まれが寺でイヤイヤながら後を継がなければならなくて来た人、またやはり自分で自ら進路を決めてきた人などそれぞれであった。
振り返ってみると、私は兄との男だけの兄弟であった。子どもが多いわけでもなかったので、親から差別されてきたという思いはなかった。しかし年子の二人兄弟となると否応なしに比べらていると感じた。兄はどちらかというと積極的で友人が多く、一方の私は消極的で友人も少なかった。兄は生徒会長にもなった。
学校では私の性格が消極的であることに先生に親に指摘してこられた。なぜ人は生まれつきの性格に対して触れるのだろうと思っていた。私は人を評価するのではなぜその子の個性を伸ばし育てることをしないのだろうと不思議に思った。そこまで思い至ったときこれが私の原点ではないかと感じ、なぜか目が潤んできた。
このそれぞれの原点を探る作業は必要だと思うが、あまりに辛くて避けたいと思っている人もいるであろうし、考える余裕のない人も少なからずいるだろうと推測できる。
釈尊にも原点があった。それは出家の動機としてよく語られる「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という説話である。何不自由なく過ごしていた中、ある年、年中行事の鋤〔す〕き入れの式があった。
王子は、父の淨飯王に連れ添って、それを見ていると・・・。
鋤きで掘り起こされた土の中にいた虫を、鳥が舞い降りてきて食べてしまったのです。
その光景は、何度も何度も繰り返されました。
王子は、いたたまれなくなって、そして思いました。
「一方が生きるために、一方が殺される・・・なんとむごたらしい・・・生きることはすべて苦である・・・」
「そして、それは、確かに現実なのだと・・・、そう、一切皆苦なのだと・・・」
釈尊が物思いに耽って、いまでいう鬱(うつ)の状態になっているのを案じた父が、彼を城外に出して散策させます。
四つの門から出る度に
「老」
「病」
「死」
という人生の重大事実を相手に深くわからせるために、そのつど聞いたのです。
それらを目にして、生きていれば老・病・死の三苦は避けられないのに、誰もそれを自覚することなく日々を無為に生きていることを痛感します。
そして最後に北門を出たときに出家した修行者に出会い、その落ち着いた、清らかな足どりで歩く姿に感動し、自らも出家をしようと決意したという。釈尊29歳の年であった。
それから、六年間の苦行生活を経て苦行の不適切さに気がつき、やがてピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった。その原点となったのが「四門出遊」であった。