最小限主義の生き方 姜尚中

最小限主義の生き方
姜尚中

2020. 8.28

 どこを見ても、「コロナ」、「コロナ」でもうウンザリ、自棄〔やけ〕っぱちになって、我慢も限界という人々が多いのではないだろうか。それでも、ようやく5月25日に全国の緊急事態宣言が解除され、日々は日常生活を取り戻しつつある。とは言え、解放感に浸っていられるわけではあるまい。マスクと手洗いを欠かさないのはもちろんだが、飛沫感染を避けるために、人との距離を常時2メートル近く保てるのか、不安に思う人も多いのではないか。

 我が身を振り返っても、私が館長を務める熊本県立劇場のスタッフとそんな距離を保ちながら、日常の業務をこなしていけるのか、甚〔はなは〕だ心許〔こころもと〕ない。

 さらに、新型コロナウイルスはエアロゾル (空気中に浮遊する細かい粒子)の状態で3時間以上も生存できるという研究結果もあるようで、それを吸い込めば、感染の危険性も否定できないのであるから、始末が悪い。当然、窓を開け、風通しをよくしなければならないが、窓際にいる人が感染者であれば、その人の飛沫から、感染が起こるかもしれないのだ。

 もはや何をやっても、罹患〔りかん〕するときは罹患すると、「出たとこ勝負」でいくしかないのだろうか。
 そもそも、ウイルスは自分で増えることも、代謝することもできない、生物とも言えないような存在である。しかし、そのウイルスは、自らを複製していくために宿主の細胞に巧みにパラサイトし、それを人質にして増殖していくのであるから、実に悪賢く、狡智〔こうち〕にたけた存在に思えてならない。そして、霊長類の頂点に位置し、「ホモ・サピエンス(知恵のある人)」として君臨し、さらに生物工学やサイボーグ工学などの最先端のテクノロジーを通じて創造と破壊を行う神のような「ホモ・デウス(デウスは神の意)」に上り詰めようとしている人間が、生物でもないようなウイルスにいいように弄〔もてあそ〕ばれているのであるから、滑稽〔こっけい〕というか、皮肉というか。「コロナ時代」を生きるためには、あれこれと右顧左眄〔うこさべん〕せず、必要最小限、マスクと手洗い、可能なら人との距離を適度に保ち、「3密」の条件の一つでも合致する場所や空間には近づかないようにするしかないのか。でも、これでは生活に味も素っ気もないことになりはしないか。何より、みんながそんな生活をやり出したら、飲食業や観光業、劇場の場合で言えば、音楽家や演劇人、ダンサーや舞踊家、さらには音響や照明などの技術者の生活が立ち行かなくなり、その損失は計り知れないはずだ。

 では妙案はあるのか。思い浮かぶアイデアは、ミニマリズム(最小限主義)といったところか。「ミニマル(最小限)」と「イズム(主義)」を組み合わせたミニマリズムは、1950年代の絵画や彫刻の分野で産声を上げ、高度成長期、アメリカを中心に音楽や美術、ファッションの分野にまで広がった考えや運動である。要するに過剰なもの、装飾的な余剰を排し、シンプルライフに徹するということである。

 そうしたミニマリズムが社会に広がっていくということは、見方を変えれば、経済がますます収縮し、デフレが進んでいくことを意味している。しかし、「コロナとの共存」が避けられないとすれば、そうしたミニマリズムの中に生きがいや幸せを見出すしか、生きる術はないのではないか。古希を迎えて、まさかこんな時代が来るとは想像もできなかったが、ミニマリズムによるシンプルな生き方という提案には思い当たる節もある。

 1960年代の末、私が大学に大学しようとしていた頃、「スモール・イズ・ビューティフル」という合言葉が、過剰な欲望を追い求める大量消費・大量生産のシステムに抗〔あらが〕う選択肢として浮上していた。それを最初に形にし、提唱したのは、ドイツ生まれの経済学者シューマッハーだった。彼は、大きいことや速いこと、強いことに囚〔とら〕われ、何事においても過剰な欲望に支配された産業社会の限界を指摘し、小規模なコミュニティや地域社会のサイズに合致した「中間技術」の必要性を唱えていた。彼が提唱した「スモール・イズ・ビューティフル」は、装飾を排したシンプルライフと共鳴していたのである。

 ただ、残念なことに高度成長期の日本では、シューマッハーのスローガンは、広くは受け入れられなかった。ビューティフルだけは受け入れられたとしても、時代はビッグなもの、高速なもの、力強いものを追い求めていたからであり、青臭い学生だった私も同じだった。あれからほぼ半世紀、シューマッハーの先駆的な予言に驚くとともに、可能な限り私も今ではシンプルに、そして何事にもスケールの大きさを求めず、できるだけ小さきものに目を向けるようにしている。それは、人間の集まりにも当てはまり、今では顔の見える人たちとのコミュニケーションがこれまで以上に価値を持つようになった。今後は、私たちの生活の潤いに欠かせない芸術や文化も、小さな集まりやコミュニティが大切になってくるのではないか。

 もっとも、それは決して閉鎖的な「島宇宙」にとどまるわけではないだろう。それらは、さまざまな情報技術を通じて遠隔地とネットワークを作っていくことができるからだ。小さきものであれば無駄を省けるし、過剰なものも必要ではなくなる。ほどよい加減の欲求を小ぢんまりとしたサークルや、コミュニティの中で満たしつつ、しかし外とネットワークを通じて結びついている。そんなイメージの社会が、コロナとの共生を余儀なくされる時代に最もふさわしいのかもしれない。

     老いる力 第17回(2020年8月号私のまいにち)より

        ◆

カン・サンジュン

 1950年、熊本県熊本市に生まれる。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。国際基督教大学准教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、東京大学名誉教授。現在、熊本県立劇場理事長兼館長、鎮西学院学院長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。おもな著書に 『悩む力』『母―オモニ―』『心』『見抜く力』『母の教え 10年後の「悩む力」』などがある。

和尚からの蛇足

 これを読んで姜尚中氏がほぼ私と同年代(私は一年年下)ということを改めて認識した。
「スモール・イズ・ビューティフル」(なんと懐かしい言葉か!)を見つけ真っ先にそれを思った。

 高度経済成長やインフレを経験し、また70年代のオイルショックは大学在学中であった。その当時もそれこそ日本中で大騒ぎとなった。就職活動にも多大な影響もあった。その後は地価高騰そしてバブルと続く――と書いてくると、隔世の感を感ずる。まさにバブルがはじけて久しいが、今年のコロナウイルスの蔓延〔まんえん〕が突然起こり、時代を変化させた事態はそれまで以上のことになっている。

 この時代の変化に対応するには、著者のいうようにアイデアとして「ミニマリズム(最小限主義)」を推奨することは十分納得がいく。つまり過剰なもの、装飾的な余剰を排し、シンプルライフに徹するということである。これからコロナと共生していかなければならない我々の生活は「小さな集まりやコミュニティが大切になってくる」ということだ。

 この時代をどう乗り切るかと考えたとき、悲観せず前向きに進むにはこれしかないのではないかと私も思う。自分の足もとをしっかり見て、おのれのできることに喜びを見つけていくことである。それは時代の退歩では決してなく、次の時代への新しい生き方であると思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA