無心になること 姜尚中〔カン・サンジュン〕

2020. 7.10

 やれやれ、長生きするといろいろな体験をすることになるようだ。いいことだけでなく、嫌なこと、大変なことも経験せざるを得ない。しかも、それが想定外の想像を絶するものであれば、「どうにもならない」と観念せざるを得ない。巨大地震に津波、原発事故、鉄砲雨のような集中豪雨に河川の氾濫、さらに世界的な金融破綻や気候変動と、この10年を振り返ると、そうした想定外の事象や出来事のオンパレードである。何とまあ、これでもかこれでもかと、「どうにもならない」ことが続くことか。

 そして、この原稿を書いている今(20年2月末)、新型コロナウイルスの感染拡大で、世界中が戦々恐々、みんな身構えて縮こまっているようだ。日本への渡航自粛を呼びかける国も増えていることから、インバウンドも大打撃を被りつつある。また、欧米のあちこちで、アジア系や「黄色人種」とみなされている人々への嫌がらせや差別が頻発しているとも聞く。19世紀後半、黄色人種が世界に禍〔わざわい〕をもたらすという人種差別的な誤った考え「黄禍論〔おうかろん〕」がドイツ帝国を中心に広がったことがある。今、その亡霊が蘇りつつあるような様相を呈している。

 どうしてこうも「どうにもならない」ことが立て続けに起こるのか。よくよく考えてみると、「どうにもならない」という思いが強いのは、逆にいうと「どうにでもなる」という考えに慣らされていたことの反動ではないのか。「どうにでもなる」という横柄な考えが強ければ強いほど、またそうした思考に慣らされていればいるほど、それが通用しない想定外の出来事に出くわすと、「どうにもならない」という思いも強くなるのかもしれない。

 考えてみれば、そもそもこの世界の出来事や人間のやることは、「どうにもならない」ものであるというのが、世の常だったのではないのか。第一、自分の身体〔からだ〕ですら、「どうにもならない」のが人間の性〔さが〕である。それはたぶんに人間の自然(ヒューマン・ネイチャー)に根ざしている。

 それでも、私たちの中に「どうにでもなる」という意識が強くなってきたのは、どうしてだろうか。その有力な要因として挙げられるのが、科学の発達であり、また技術の進化ではないだろうか。

 科学の発達や技術の進化は、人間も含めて世界を「どうにでも」操作できる能力がより高まっていくことを意味している。最近はやりの「AI(人工知能)万能論」も、「どうにでもなる」という考えの集大成といえるかもしれない。極論すれば、AIによって将来、自然現象や社会的な出来事に伴う不確実性は極限まで縮減され、想定外なことなどほとんどあり得なくなり、大抵のことが「どうにでもなる」とみなされるかもしれないのだ。

 しかし、人間は不可避的に「身体」的な存在である。「身体」的な存在とは、感覚や感情、観念やイメージ、夢や理想も含めて、ありとあらゆる人間的な表象がすべて「身体」
との総合的な関わり合いの中で生まれたり消えたり、また変化したりするのである。

 人間の心もまた、「身体」的な存在に宿る精神作用といえる。私たちを制約すると同時に私たちに可能性を与えてくれる「身体」性を抜きにして知能や観念を考えることが、いかに抽象的で一面的であるかは、今回の新型コロナウイルスの感染を見れば明らかである。

 ウイルスは機械をその「宿主」とすることはできない。生きている、有機体としての人間の「身体」だからこそ、ウイルスはそれを「宿主」に選んだのである。ウイルスから完全に自由であるために、人間は自分の身体を抹消してただ知能の塊〔かたまり〕としての「脳」だけに縮約できるだろうか。そんなことは荒唐無稽〔こうとうむけい〕なSFの世界である。

 今回の「ウイルス騒ぎ」は、改めて人間は「どうにもならない」身体を授かった生き物であることを私たちに教えてくれた。しかも、私たちがやれることは、実に原始的で簡単なことだ。マスクをし、よく手を洗う、これに尽きる。それでも、感染するとしたら、「どうにもならない」。

 しかし、「どうにもならない」という受動性こそ、「無心」に近い境地だと説いたのは、禅の研究で有名な仏教哲学者、鈴木大拙〔だいせつ〕である。大拙は、「無心とは、絶対的な受動性」であると指摘している。それが何を意味するのか、ずっと考えてきたが、一瞬ではあれ、それに近いような「体験」をしたことはある。

 かれこれ4年近く前、熊本地震に直面し、死の恐怖を味わった時、私は「生きてもいい」し、「死んでもいい」という、何か静かな境地になったのである。そうなると、不思議なもので、粛々と身支度を整え、自分でも驚くほどに落ち着いて避難場所に移動していたのである。その間、私は「どうにかしよう」という作為もなければ、ただ観念して悲嘆にくれていたわけでもない。「絶対的な受動性」としか言いようのない静かな覚悟、つまり「無心」のようなものが宿っていたのである。「無心」こそ、不確実な世界を生き抜くキーワードではないだろうか。

     ◆

【老いる力 第14回 無心になること 私のまいにち2020年5月号】 より

姜尚中〔カン・サンジュン〕
 1950年、熊本県熊本市に生まれる。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。国際基督教大学准教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、東京大学名誉教授。現在、熊本県立劇場理事長兼館長、鎮西学院学院長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。おもな著書に『悩む力』『母―オモニ―』『心』『見抜く力』『母の教え 10年後の「悩む力」』などがある。

和尚からの蛇足

 カン・サンジュン氏は言う。「今回の『ウイルス騒ぎ』は、改めて人間は『どうにもならない』身体を授かった生き物であることを私たちに教えてくれた」と。
これまでさほど疑問に思わなかったことがらについて、このコロナウイルスにより様々なことを考えさせられた人は少なからずいるだろう。カン・サンジュン氏もそうであり、かくいう私もその一人である。

 考えてみれば、自分の「身体」のことを「どうにもならない身体」ととらえるのは相当せっぱ詰まった言い方であり、追い詰められたときにしか出てこない言葉であろう。重篤な病気にかかった人がそう思うなら誰でも理解ができるが、そうではなく病気にかかっていないが生活のあらゆる場面に関わりがあるということでそう思うということもある。

 そこで私なりに考えてみた。それにはお釈迦さんの言葉に耳をかたむけなければならない。

「苦の元である身体は、私が作ったのでもなく、他のものが作ったのでもない。因によって生じ、因が滅するによって消滅する。一つの種子が田に播かれて、大地の滋味と水分の両方によって成長するように、五蘊(色受想行識)、六界、六処(六つの認識の領域と働き)も因によって生じ、因が滅することによって、滅する。」

 つまり「身体は、私が作ったのでもなく、他のものが作ったのでもない」と。
だからそもそも「どうにでもなる」と思うことが間違っているのである。カン・サンジュン氏が「どうにでもなる」と思う原因として、科学の発達や技術の進化をあげている。どちらも進化していくと自らの「身体」性から離れていく傾向があり、いつの間にか「どうにでもなる」と錯覚するようになってしまうのである。「因によって生じ、因が滅することによって、滅する。」ことを忘れてしまうのだ。

 仏教哲学者、鈴木大拙〔だいせつ〕が「無心とは、絶対的な受動性」と指摘しているが、次のようにも書いている。人間は「寒かったり暑かったり、怒ったり笑ったりするけれどもその怒ったりする表面だけを見ると、心があり、情があり、意があると思いますが、そのもとを、もう少し推し進めてみると、やはり木や石などをたらしめるところの、何か無意識的なものに突き当たるのです。そこに絶対的受動性というようなところがある。それを体得しなければいけない」と。

 カン・サンジュン氏が熊本地震のときの体験で、「無心」のようなものが宿っていたと感じ、これが不確実な世界を生き抜くキーワードであると鋭く指摘しているのである。
もともと私たちの生きている世界は地震が起きようが起きまいが、コロナウイルスが流行しようがしまいが、不確実な世界であることを忘れてはならないであろう。

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