臨済禅師の教え―法華経の譬喩

2020. 4.24

円覚寺派管長 横田南嶺老師

「三界無安、猶如火宅」の話の後、次のように続けられた。

「如来は已に 三界の火宅を離れて寂然として閑居し 林野に安処せり」
とあって、仏さまとは、この燃えさかる家を離れて、静かな林に安らかに住んでいる人なのです。
そしてその仏さまの目からご覧になれば、
「今此の三界は、皆是れ我が有なり」
であって、この迷える世界は私の家のようなものなのです。
更に
「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」
この世界で苦しんでいる人はみな仏さまの子なのです。

「而も今此の処は、諸の患難多し。唯我一人のみ、能く救護を為す」
といって、この世界は災いが多いので、私一人がそこから救ってあげることができると説かれています。

その仏さまとは、いったいどのような方でしょうか、どこにいらっしゃるのであろうかというと、
臨済禅師は仏さまがどこかにいらっしゃるかなどと、外に求めてはならない と仰せになりました 
あなたの心に具わっている清らかな智慧、無分別の智慧、無差別の智慧こそが仏にほかならないと示されたのです。

そして言われたのが、
仏とは、今わたしの目前で説法を聴いているお前達そのものだ と。

燃えさかる家で苦しんでいて、そこから救ってもらうのが私たちだと思ってしまいがちですが、
救う側の仏が私なのであります。

(円覚寺ホームページ ブログより)

和尚からの蛇足

 これは『臨済録』の中で、臨済禅師が法華経の譬喩を出し、説かれている所を横田南嶺老師が引用されているものです。

 前回4月17日付のブログで、繰り返しになるが山中伸弥教授が「私たちは普段、社会に守られている。今は、私たちが社会を守る番」という文章を紹介した。それを禅で考えるとどういうことであるかがここで述べられていると思う。

 つまり横田南嶺老師は「救う側の仏が私なのであります。」と書かれている。われわれはとかく「燃えさかる家で苦しんでいて、そこから救ってもらうのが私たちだと思ってしまいがち」である。そうではないのだ。救ってくれる仏さまがどこかにいないかと外に向かって求めても、得ることはできない。

 「仏とは、今わたしの目前で説法を聴いているお前達そのものだ」。迷って、ウロウロしても苦悩は少しも消えるものではない。「私が社会を守る仏なのだ」と心を定め、それに参じていかなければならないと臨済禅師は口酸っぱく説いているのだ。

 ウイルスを悪者とし、それをやっつければ全て解決すると思っていたらとんでもないことになるだろう。ウイルスはこれからも長く変異を繰り返しながらも生き残っていくだろう。だから生物の一部として共存していくしかない。

 いま問題なのはウイルスそのものより、その出現によっておこされる病状によるストレスや差別意識が助長され、われわれ人間から寛容さが失われることの方である。

 新型コロナウイルスの恐怖・不安から逃れようとしても誰も助けてくれるものなどない。自らがそれに向き合っていかなければ、それから逃れることなど出来ないのだ。今それが突きつけられているのだと思う。

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