説話【アバヤさん】

2019.11. 2

(前四○○年前後)

 「ブッダと呼ばれるようなお方でも、お前は地獄行きだ、というような恐ろしい言葉を使うことがあるのですか」
 アバヤさんが幼い息子を胡坐〔あぐら〕に乗せ、家族や、使用人、仏弟子たちが見守る中で、お釈迦さまに質問しました。

 ジャイナ教教祖さまの入れ知恵で竹林精舎〔ちくりんしょうじゃ〕からお釈迦さま一行を招待して、アバヤ邸での昼食供養会の席です。

 その頃、お釈迦さまに反逆をくり返していたデーヴァダッタに対し、お釈迦さまが、「お前は地獄に落ちる」と粗暴な言葉を発したという噂〔うわさ〕が、ラージャグリハの街に流れ、教祖さまの耳にも届きました。

 仏教の広がりをよろしく思っていなかった教祖さまは、このことでお釈迦さまを貶〔おとし〕めようと、信者のアバヤさんを呼んで、「悟った者は、他人を傷つけるような言葉を吐くことはないはずなのに、この様な恐ろしい言葉を発するなら、覚者〔かくしゃ〕と凡夫〔ぼんぷ〕の区別がつかないではないかと、弟子たちの前で釈迦に詰問するがよい。多分釈迦は返答に窮して、お前さんの名が高まるよ」と、けしかけられていたのです。

 ところが、会いに来たアバヤさんに「例えば、その膝の上の赤ん坊が石ころを喉に詰めたらあなたはどうしますか」とお釈迦さまが逆に質問されました。
 「たとえ血が出ようとも、喉に指を突っ込んで取り出しますよ」
 「そうでしょう。恐ろしい言葉でも、その言葉が相手にとって詰まる所、救いになる場合はそうでしょう。」アバヤさんはお釈迦さまに尋ねました。

「世の人を、害したことが有りますか。言葉で害したことが、有りますか、無いですか」。
お釈迦さまは「それは一概には言えませんね」と答えられました。
答えに窮して絶句するお釈迦さまを想定していたアバヤさんは、逆に絶句しました。
釈迦さまは「ほとけは慈悲の心で言葉を使いますから」とお答えになりました。

 ジャイナ教の教祖さまとは、心の広さ、深さの大きな違いを感じ取ったアバヤさんは、赤ん坊を膝から下ろし、平伏したそうです。

『花園』平成25年7月号 文・なみ からし より(部分的に書き直しています)

和尚からの蛇足

 この話はパーリ仏典経蔵中部(マッジマ・ニカーヤ)にある「アバヤ王子経」に載っています。経題にある通りアバヤさんはアバヤ王子のことです。
話の筋はジャイナ教教祖ニガンタ・ナータプッタにけしかけられた王子が釈迦の言葉に諭されて仏教に帰依するようになったということです。

 自分の子どもが苦しんでいるとき、釈迦は「それに対してどう処置をするのか」と問いかけます。するとアバヤ王子は「師よ、私ならばそれを取り出します。師よ、もし直ちに取り出すことができなければ、左手で頭を掴み、右手で指を曲げ、血が出ようとも取り出します。なぜなら、師よ、私には幼子に対する愛情があるからです」と答えます。

 次の釈迦の言葉に耳を傾けて下さい。「王子よ、まさにそのように、如来がその言葉を事実でない、真実でない、利益を伴わないものと知り、しかもそれが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合、如来はその言葉を語ることがありません。

 如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴わないものと知り、それが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合もまた、如来はその言葉を語ることがありません。

 しかし、如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴うものと知り、それが他の者たちに好ましくない、不快なものである場合もまた、如来はその言葉を説き明かすために語ります。

 如来がその言葉を事実でない、真実でない、利益を伴わないものと知り、しかもそれが他の者たちに好ましい、快いものである場合、如来はその言葉を語ることがありません。

 如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴わないと知り、それが他の者たちに好ましい、快いものである場合もまた、如来はその言葉を語ることがありません。

 しかし、如来がその言葉を事実であり、真実であり、利益を伴うものと知り、それが他の者たちに好ましい、快いものである場合、如来はその言葉を説き明かすために語ります。
それはなぜか。王子よ、如来には生けるものたちに対する憐れみがあるからです」と。(大事なところなので長文を引用しました)

 ここには如来の説法における慈悲が表されています。私たちは仏教を学んでいます。言葉の大切さを理解し、話すときも聞くときも心すべきでしょう。

 道元さんも「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛〔こあい〕の言語をほどこすなり」。続いて「慈念衆生〔じねんしゅじょう〕、猶如赤子〔ゆうにょしゃくし〕のおもひをたくはへて言語するは愛語なり」。と言っています。

 そのままでおわかりと思いますが、直訳すれば「愛語とは、衆生を見る時に先ず慈愛の心を起こし、愛顧の言葉をかけることです」。「衆生に対して、赤子を慈しむような思いをためて語ることが愛語です」。ですから「愛語」とは親しみのこもったことば・慈悲の愛から発せられたことばということです。

(初掲載2017年5月30日)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA