説話【ウパカさん】
説話【ウパカさん】
2020.10.23
〔前四〇〇年頃〕
小路から、悪臭と共に茶色の牛がのっそりと大通りへ出て来ました。小路の向こうはガンジス河。ベナレスの朝は賑やかなガンジスの沐浴で明けます。
喧騒が遠くなった街外れ、杖を待った行者がゆったりと歩いています。
行者はウバカさんと申します。
この頃、インドではアージヴァカ教という宗教が勢力を持っていました。ウバカさんはアージヴァカ教の行者なのです。早朝からベナレスの郊外へ布教に行く途中です。
朝もやの中から中年の行者が忽然と現われました。
「おやっ、えらく輝いている行者だな」
ウバカさんは修行を積んだ行者です。初対面の相手でも、その姿を見ればある程度、修行の出来具合を見て取ることができます。この行者は、その顔つきから相当修行が進んでいると見ました。
「お早うございます。私はアージヴァカ教のウバカと申す行者ですが、あなたは何教の行者さんですか」
「私はゴウタマと申しますが、まだ何教といった教団は持っていません」
「はて。それではあなたのお師匠さんは何というお方ですか」
「私にはお師匠さんはありません。私は独力で無上の悟りを開きました。不動の真理を掴み取りました」
「………」
「つい最近、十二月八日の早朝に、私はブタガヤの大きな菩提樹の下で、長い坐禅の末に、様々な煩悩の誘惑を打ち破り、大悟を掴むことができました」
「へえー」
「私は最高の悟りを開いたブッダです。菩提樹の下で、しばらくブッダになった喜びに浸っていたのですが、最高の神様、梵夫様が空から降りて来て、自分だけ喜んでないで悩み多い世界中の人々にお悟りを教えなさい、と請われたので、これから知り合いがいるサールナートヘ、初めてのお説法に行くところです」
「左様ですか」
ウバカさんは首を左右に振り振り、独り言をつぶやきながら歩み始めました。
「将来、間違いなく大聖者になる人だろうが、今はまだちょっと気負い過ぎかな」
橙色の太陽が全身を現わしましたが、ガンジスの喧噪は遠雷の如く続いています。
『花園』平成28年10月号 文・なみ からし より
和尚からの蛇足
この場面はブッダの生涯において大事な瞬間である。というのは、ブッダガヤでお悟りを開きサールナートに向かう途中ベナレスで出会った最初の他宗の行者であった。その時彼はアージヴァカ教の行者であったが、のちにブッダの弟子になった。
ブッダの最初の弟子はサールナートで落ち合った五人の行者である。彼らはかつてともに修行した仲間であった。その場面も私は感動的な出会いであり、読むたびに心を動かされる。こうしてブッダの旅は始まったのであり、何ものにも代えがたい教えを説くこととなったのである。
ベナレスという沐浴の場は雑踏で賑わっていたでしょう。その郊外での出会いが次につながって行くのかと思うとワクワクしてくる。人との出会いを大切にしたいものである。