食べごしらえ 田中優子

2020. 5.22

田中優子の江戸から見ると(2020.4.15毎日新聞)より

 石牟礼道子論を書いている。彼女が使う言葉のなかに「食べごしらえ」という、私にはなじみのない言葉がある。「食べごしらえ おままごと」というエッセー集も出していて、そこでは子供のころ経験した、石臼でひいた小麦で作る団子やうどん、自分たちで摘んできた草の浅漬け、かまどの余熱で焼くサツマイモ、ニガウリ、山芋、ムカゴ、タラの芽、川エビなどのおいしさが書かれている。他の著書の随所にも、不知火海で取った貝や魚のおいしさ、漁師たちの食べ物の豊かさ、漁でとれたものを狙って浜辺に集まる動物たちの面白さが描かれる。
 しかし石牟礼は食通ではない。料理好きでもない。タレントたちがおいしい店とやらで舌つづみを打ってみせることや、高価なものを食べ歩きして高くさえあればおいしいと感じるらしいことに、首をかしげる。
 つまり「食べごしらえ」とは料理のことではないのである。たとえば毒のある野草を人が食べられるように「こしらえる」のが、「食べごしらえ」である。コンニャク芋のあくを抜いてこんにゃくにしたり、大豆を発酵させて納豆を作ったりするのが、江戸時代からある「食べごしらえ」だ。海のもの、川のもの、山のもの、野のもの、そのすべての自然を、自然の味わいまるごと食べられるようにいささか加工することだ。その場合大事なのは口に入れたものがどれだけ新鮮で、どれほど自然そのものを味わい尽くせるか、である。
 これは江戸時代の生産者たちの感覚と価値観だ。旬でないものが季節はずれに並べられても、熟していない果実を遠方から運んできても、個性的な苦みや酸味や匂いがなくなった野菜や果物が大量に買えるとしても、江戸時代では喜ばれなかったろう。戦後生まれの私でさえ、野菜から風味が失われたことにがっかりしている。自給率の高かった時代こそ、真にぜいたくな時代だった。

田中優子(法政大総長)
田中優子(たなか・ゆうこ):法政大学総長、江戸文化研究者。1952年、横浜生まれ。法政大学大学院修了後、助教授、教授となり、社会学部長を経て総長に就任。さまざまな改革で2017、2018年度の同大学の志願者数は東日本1位。 著書は『江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴』 (ちくま学芸文庫)、『江戸百夢』(朝日新聞社)、『江戸はネットワーク 』(平凡社ライブラリー)など多数。1986年 芸術選奨文部大臣新人賞受賞、2001年 サントリー学芸賞、2000年 芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。2005年には紫綬褒章受章。IBM「天城学長会議」メンバー。

和尚からの蛇足

 この「食べごしらえ」という言葉は、私にもあまりなじみのない言葉である。そもそも辞書によると「こしらえる」という言葉自体に「食べられるように仕上げる。調理する。」という意味がある。

 しかしここで述べられているように、「『食べごしらえ』は海のもの、川のもの、山のもの、野のもの、そのすべての自然を、自然の味わいまるごと食べられるようにいささか加工することだ。その場合大事なのは口に入れたものがどれだけ新鮮で、どれほど自然そのものを味わい尽くせるか」だ。だから「食べごしらえ」という言葉にはもっと深いところにまで通じたところがあるのである。

 それが「食べごしらえ」という言葉が何か耳新しく感じた理由である。現代人が食べ物に対して思っていることとはいささかのズレがあるように思う。田中優子先生が言うように「江戸時代の生産者たちの感覚と価値観」とのズレである。食材料が本来持っている風味や独特のクセを先人たちが昔から引き継いできた知恵によって引き出すのである。これを文化というのではないだろうか。文化そのものではないだろうか。

 残念ながらそれが今失われつつあるのだ。そのことにひとりでも多くの人が、早く気がついてもらい、食を通してこころ豊かな文化を育んでいって欲しいと願っている。

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