驢事〔ろじ〕未だ去らざるに馬事〔ばじ〕到来す

2020.10.16

驢事未だ去らざるに馬事到来す(驢事未去馬事到来)

 雲居道膺のところから長慶へ行ったこの雲水の坊さんは、尋ねていわく、
  「羚羊挂角時如何」(羚羊〔れいよう〕角〔つの〕を挂〔か〕く時はどうですか?)
 長慶答う、
  「草裏漢。」(草ひらの中に居る者の義」
 僧また打続け問う、
  『羚羊挂角後如何。』(羚羊〔れいよう〕角〔つの〕を挂〔か〕いた後はどうですか?)
  『乱叫喚。』(ただ無暗に叫びまわっている。)

 こんな答えはどんな意味にでもとれる。問う名のほうに充てて解しもせられ、また、その人の境地を他から見て評判するほうにも取られよう。それはいずれでもよいとして、肝心なところは次の問答である。ここに無効用的行為を客観的に見て、その人の日常底を写し出すものがうかがわれるからである。

  雲水の僧更に問う、
  「畢竟如何。」(つまるところどうですか?)
  長慶答う、「驢事未去馬事到来。」

 この語はよく禅録に出てくるが、ここでは『次から次へと、毎日いろいろの用に追われているわい』との意に解してよろしい。朝起きて面を洗う間もなく、お客が来る。大事と見てもよし、なんでもないと見てもよし、とにかく、その用がまとまると、また次の者が来る。郵便やさんは何かと諸方の書信を配達してくれる。新聞も見ずばなるまい。親類や友人間の用事もある。お役所の勤めもあろう。読書もしなければならぬ.庭の仕事もしておかないと、草ははえる、花は咲かぬ。これが驢事馬事である。毎日ひっきりなしに何か用事のあるのがわれら日常の生活である.水の流れるごとくさっさと片づいてゆくところに無功用的生涯がある。

『禅の思想』鈴木大拙著より                

※鈴木大拙(1870-1966)
 明治3年金沢市に生れる。苦学して四高まで進み、同校で西田幾多郎らと親交を結ぶ。明治24年上京。東京専門学校(早大の前身)に学ぶかたわら円覚寺の今北洪川について参禅。明治25年東大選科に入る。27歳の時、洪川老師の後継者釈宗演の縁でアメリカに渡り、出版社に勤務。明治42年、帰国して学習院、東大の講師。大正10年真宗大谷大学教授となり、仏教思想を海外へ紹介した。戦後はハワイ大学、コロンビア大学等で長く仏教哲学を講じた。昭和24年文化勲章受章。昭和41年96歳で没す。その著書『禅と日本文化』は名著として戦前から多くの読者に読みつがれてきた。

※長慶慧稜(ちょうけい・えりょう。八五四~九三二)
 長慶禅師は、浙江省、塩官(えんかん)の生まれ、俗姓は孫氏、生まれつき純朴で淡泊な性格の人であり、十三歳のとき蘇州の通玄寺で出家し、受戒後は禅の道場に歴参、西院思明(さいいん・しみょう)禅師や霊雲志勤(れいうん・しごん)禅師に参じたが疑いが残り、雪峰禅師のもとで疑情が氷解しその法を嗣いだ。

※羚羊挂角ー羚羊〔れいよう〕角〔つの〕を挂〔か〕く
 羚羊(カモシカ)には、夜寝るときに角を樹の枝にかけて脚を浮かして眠るものがあるといいます。足跡を残さない、転じて言葉・行為としての跡をとどめないことをいいます。私たち人間は、しばしば「自分はこれだけのことをやった」と評価を求めるところがありますが、ときとしてそうした思いは自らを苦しめます。「何かを成し遂げた」という思いも忘れて、「新しい日々を無心に生きる」それこそが何ものにも縛られない、真に自由な生き方です。(http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/yomoyamabanasi/01355kakejiku46.htm より)

和尚からの蛇足

 これは『禅の思想』(鈴木大拙著)からの引用である。語録で使われる語は難しいように思われる方もいるでしょうが、よく読むとそれほど嫌う必要はないでしょう。もちろん誰にでも分かりやすいとはいえないが・・・。

 この『禅の思想』という本が鈴木大拙により、戦争中に書かれているのに驚いた。

 我々が禅というものを誤って理解しないように親切に説いているように思う。さて、表題の「驢事未だ去らざるに馬事到来す」の語源は中国・宋代の禅宗通史である『五灯会元』という書である。一般的にはことわざとして「一つのことが終わらないうちに、別のことが起きること」のたとえの意味で使われている。

 この本の「序」の中で鈴木大拙は「禅は行為である。生活である。日日の経験そのものである。日用光中の行住坐臥である。それで『平常心是道』ともいい、『日日これ好日』ともいう。」と書いている。さらに「禅は、道元禅師のいうように、『魚行きて魚に似、鳥飛んで鳥の如』きところにある。」と述べている。

 本文では禅の肝腎なところを「水の流れるごとくさっさと片づいてゆくところに無功用的生涯」ということばで説明されている。

 禅を学び、大事なことをありがたく頭の上にいただくことではなく、「水の流れるごとくさっさと片づいてゆく」生き方ができるかどうかなのである。これによって私の、あなたの生き方が変わってくるのである。

 

※魚行きて魚に似、鳥飛んで鳥の如き
  水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり
  空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し
      (道元禅師 坐禅箴〔ざぜんしん〕)

という対句から取ったものです。
意訳すると、
 水中を、魚はどう泳いだら良いか考えて泳いでいるのではない。
 空中を、鳥はどう飛んだら良いか考えて飛んでいるのではない。
 しかし、自在に水中を泳ぎ、空中を飛ぶ。
 坐禅の心もそのように自在なものである。

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