「即心即仏」と「非心非仏」について

2019. 8.28

 『無門関』をご存じの方は、お気づきかも知れませんが、その第三十則では、「如何なるか是れ仏」という。全く同じ質問に対して、馬祖は「即心是仏」と答えています。しかも、その「即心是仏」という言葉で、相手の大梅法常禅師は悟りを開くことができた。
 ところが、ここでは一転して、馬祖は相手の坊さんに対して、「非心非仏(心に非ず、仏に非ず)」と答えています。先の「即心是仏」というのは、「心がそのまま仏」ということです。言葉の解釈としては、明らかに違った表現です。
 そこで、これら二つの表現が違っているから、これを説明しようとして、次のようなことをいう人がいます。
 「即心是仏」と馬祖がいったころは、馬祖の心境がまだ充分に練れていなくて、極めて説明的に、〈おまえの、その生まれながらの心が仏だ〉といったのである。しかし、そういうふうにいうと、人はみな生まれながらに仏だから、改めて修行する必要はないではないか、というふうになって、だんだんだらけてくる。そこで、いったん与えた「即心是仏」という言葉を、馬祖は取り上げようとして、「非心非仏」というようになったのだ――と、こういう理屈がついてくる。いわゆる解釈です。しかし、こういう解釈をしたら、一文の値打ちもなくなってしまいます。

「即心是仏」によって、大梅法常禅師が悟りを開いたのち、大梅山に籠〔こ〕もり、そこで人々の修行の相手をするようになったころ、馬祖は弟子を使いに出して、
「あなたはこの山で、どのような心境で相手をしているのか」
と問わせます。それに対して、大梅法常禅師は、
「自分はかつて、馬祖のところで〈即心是仏〉の一言によって悟りを開いた。その心境によって、今ここで人々の相手をしている」
と答えました。ところが、あらかじめいい聞かされてきた使いの者は、
「しかし、このごろでは、馬祖はそうはおっしゃてはおりません。〈非心非仏〉といっておられます」
と追い打ちをかけた。これに対して、大梅法常禅師は、
「あのクソ爺め、いまだに人を迷わすことをやめないか。さもあればあれ、馬祖がどういおうと、自分はひたすらに〈即心是仏〉だ」
と答えた。それを聞いた馬祖は、
「大梅の梅子〔ばいす〕熟せり(梅の実は熟した)」
と大変喜んだ。
「即心是仏」というのは、畢竟〔ひっきょう〕、大梅法常禅師の中にあった妄想を、余すところなく焼き尽くしてしまう、智慧の火に他ならなかったのです。
「非心非仏」もまた同じです。「即心是仏」といおうと、「非心非仏」といおうと、祖師たちが、何に苦労したか。それは、ひとえに人々の心の中に刺さった釘を抜き、楔〔くさび〕を抜き、妄想の思いを焼き尽くすこと以外にはない。それ以外の努力はしていないのです。祖師たちの言葉というのもまた、そのための言葉であり、「者裏〔しゃり〕」や「這箇〔しゃこ〕」もまた、その一つの例に他なりません。

『お前は誰か―若き人びとへ―』盛永宗興著より

和尚からの蛇足

 『無門関』という有名な語録を読むと、第三十則「即心即仏」と第三十三則「非心非仏」があり、それぞれの則で馬祖禅師が全く反対のことを答えているのですから、戸惑ってしまいます。

 そこでどのように考えたら良いのかが、上の盛永宗興老師の文なのです。ここに書かれているように、言葉にとらわれ、解釈におちいってしまったら、まったくの的外れ「一文の値打ちもなく」なります。
 多くの人が禅を解釈し、語録の言葉を引用しわかったようなつもりなっています。それを砕くために、大事なことを述べているのです。
 上の文章の終わりで、「者裏〔しゃり〕」や「這箇〔しゃこ〕」という語が出てきます。それについて触れておきます。「者裏」は「ここ」、「這箇」は「これ」という意味です。文の中で「その一つの例に他なりません」というのは別の個所で盛永宗興老師は次のように書いています。

 祖録は「手垢にまみれ、概念化された言葉を嫌い、名前をつけることもできな いものを、漠然と「それ」と呼び、「あれ」とよぶことによって、徹底して概念 化されることを拒否しようとするのです」と。

 ここに禅というもののあり方が示されているのです。それは取りも直さず、本当の自分を追求することでもあるのです。「自分はこうです」「自分はこういう名前です」と言葉で自分を決め、わかったつもりなっているが、それは全く答になっていないのです。そこを実参実究〔じっさんじっきゅう〕していくことが、本当の願いにならなければならないのです。

 盛永宗興老師は上の文章の後の方で大事なことをいっています。

 「それ(注:自分を超えた力)は、自分ではない何かの力であるけれども、それ が顕〔あらわ〕れるのは、自分を通してなのです。そして、自分を通して顕れる けれども、それは自分の力ではないのです。
 もし、この世の中に奇跡というものがあるのならば、そここそが奇跡であり、 これだけが奇跡です。自分の力でないものが、自分を通して顕れる。だから、そ れを「慈悲」とか「愛」といいます。
 その力が発現するきっかけとなる火やマッチ、あるいは釘抜き、それが「即心 是仏」であり、「非心非仏」なのです。ですから、これを言語の上でいくら解釈し ても、本質的な部分に関わってこない限り、本来の意図からいえば無意味です」 と。

さらに

「馬祖のいった言葉をどう解釈するか」と、苦労して修行するのではなく、自分 自身が生きるということについて、もっと切実になること、それしか祖録を真に 意味あるものとする道はない」と
述べています。

 長々と引用し、恐縮ですが、やはり「自分の力でないものが、自分を通して顕れ」、「自分自身が生きるということに」真剣になるのが正しい禅のあり方なのだと改めて自覚しました。

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