説話【丹霞さん】
2019. 8. 1
(738〜824年)
地球温暖化の現れでしょうか。近年の師走は徐々に温かくなっているように思えます。子どものころは冬休みになると雪遊びが楽しみでしたが、今の京都は師走に雪をかぶることもほとんどなくなりました。
「ありゃ」
中国の唐の時代です。温暖化始まっていなかったのでしょう。寒い寒い冬の朝でした。洛陽の慧林寺〔えりんじ〕という禅寺の院主さんが驚いて声をあげました。何としたことか、昨夜から泊まっている旅の僧が仏殿の真ん前で焚き火をしています。
「これこれ、大切な仏殿の真ん前で焚き火をするなんて仏様に無礼じゃないか」
「これはこれは院主樣、お早うございます。今朝は格別に寒うございますな。まあ、おあたりになりませんか」
「一体何を燃やしてるんだ」
「いや、ご本尊さまのお木像ですよ」
「何ということ」
「体も暖まったのでこうやって灰をかきまでお舎利を探しているんですよ」
「なんて奴だ。木仏にお釈迦様の遺骨なんてあるわけないじゃないか」
「なんと、ないんですか。それじゃ、脇仏様も燃やして見ましょうか」
もう、院主さんは怒り心頭に達して、口がきけなくなってしまいました。
古来より間違った教えをすると仏罰があたって眉が抜けると云われていたそうです。
たしなめた院主さんは後に眉が落ちたそうです。とんでもないことをした丹霞さんの眉は抜けなかったそうです。
何故なんでしょうか。丹霞とは地名で、本名は天然〔てんねん〕さん。禅門に入る前は儒教を学んでいた人でした。
今は焚き火も昔の物語りとなりました。
『花園』平成20年12月号 文・なみ からし より
和尚からの蛇足
古来よりこの話は木仏を焼いた話として有名です。『祖堂集』に載っています。
この丹霞禅師の独脱自在ぶりは目立っていたようで、若いころそれを見ていた師である馬祖から「天然なり」と認められ、天然という僧名を名乗るようになったのでした。
上の話のような丹霞禅師の躊躇のない逸脱ぶりも驚きですが、これに関連し趙州禅師にも面白い話が伝わっています。
ある役人が問うた、「木仏を焼いたのは丹霞なのに、なぜ寺の院主のほうの眉やヒゲが落ちてしまったのでしょうか?」趙州、「お宅で煮炊きをしているのは、どういうお人ですか?」「使用人ですが…」。「ふむ、むしろ、そのお人のほうがウワテですな」。(小川隆訳『禅文化』235)
趙州を訪れた役人は禅に対してそれなりの知識を持っていることを自慢し、修行僧ぶって上のような質問をしました。趙州はそれに意を介さないように「煮炊きをしているのはどなたか?」と問い返し、それに「使用人です」と応えた。そこで趙州はあなたより「その使用人のほうがよほどすぐれていますな」と応じました。一見どこが丹霞焼仏の話と関係があるのかわかりにくいと思います。
小川氏の説明では、丹霞をとがめた院主は「仏」しか見えていなかった。一方の丹霞はただ「木」を焼いただけだった。それに符合するように役人は「仏」しか見えていず、使用人は料理をするのにただ「木」を燃やしているだけですから、使用人のほうが丹霞の意にかなっているというわけです。
(初掲載2017年2月4日)